政治と暴力

先日のエントリ「エゴイストの論理 -代理出産と三宅島レース-」のコメント欄でだいくまさんから次のようなご意見をいただきました。
お返事を書いているうちに長くなったのでエントリに起こします。

nomaddaemon: エゴイストの論理 -代理出産と三宅島レース-
うーん。
民意が反映されるのが民主主義ならば、現在の日本で行われているのは一党独裁でしかないでしょう。
そして、既存のスタイルからしか主義を選べないなら、結局のところ、人間に未来は無いと思います。
民主主義ですら、不完全な過渡期的産物でしょうし(物事の正否と多数決が関係ないのは誰でもわかること)。
: (略)

その点で、テロルはそれ自体が社会を変革するというより、国家を私欲で誤った方向に進めようとする人間が出て来た時に、抑止力として働く意味が大きいと思います。
(略)
Posted by: だいくま | 2007年04月21日 14:05

> だいくまさん
仰りたいことは良くわかります。
民主主義というのは往々にして、最善を選ぶのではなく、平均を選ぶシステムです。
間違っていたことが明白であっても、それを修正するのは容易ではありません。
正しい手段を取るために、一刻も早く修正しなくてはならないことであっても、間に合わないことがあります。
しかし、僕には、今のところこれに代わるアイデアを持っていません。
僕が独裁者になれば僕が思ったような世界が作られるでしょうが、多分、日本の人口が半分になるほど苛烈な政策をとるでしょうし、僕が退任(か暗殺か)した後、同じような政策がとられるとは思えません。
暴力装置であっても制度の中に組み入れて運用しなくては継続できないのです。
残念ながら、どんな装置であれ、制度の中に組み込まれた時点で腐敗の可能性を内包しています。
全国民の救済を目指した科学と合議による制度を標榜する社会主義さえ、うまく運用できているところはないようです。独裁主義に堕するか、崩壊しています。
もともと、制度の腐敗を正そうとして行われた革命の結果が今の民主主義です。革命とは非合法な暴力であり、つまりはテロでした。
制度の中に組み入れられた暴力装置として、例えば労働運動なんかがあります。穏健な形の暴力を武器(!)に「闘って」いるわけです。ストライキとはサボタージュなんですから。
しかし、こうした労働組合も、結局は労働者を守るための運動ではなく、組合という組織を守るための運動に堕していきます。実際僕自身もそういう扱いを経験していますしね。
スローフード運動というのも、ホントはグローバリズムに対する非合法な暴力運動なんだけど、日本じゃ贅沢なうまいものを食べることになっちまったらしい。
結局、人というものは総じて(平均で言えば)グダグダのダメダメなのだと思います。
こんな具合に、制度を監視するための暴力装置は、さらにそれを監視するための暴力装置が必要となり、無限連鎖を生じてしまいます。
「正しい判断と暴力の能力」の資源は有限ですので、結局制度の中には取り込めきれないということになります。
僕自身は暴力というものの存在を認めます。
それは「ゲンコツで誰かをぶん殴る」あるいは「政治家を殺す」というようなプリミティブなものから「生活保護の申請書類の書き方を教えない」というような事柄まで、いろんな幅、色合いがあります。それはそこに実際に存在していて、対抗するにはやはり何らかの形での暴力を使うしかありません。
(同じ種類の暴力を使わなくても対抗はできます。「ペンは剣よりも強し」とか申しますけれど、ペンも剣も同じく暴力なんです)
しかしながら、今のところ「腐敗する暴力」に対して何か有効な手段を思いつかないので、ダメな制度であってもこれを使うしかないのかなあ、と思っています。