The Qualians掲示板 ペンギンの跳躍
村上隆批判 投稿者:のまd 投稿日: 1月10日(土)12時18分13秒
> 『ビジュアルであるはずの表現を理解不能にさせる愚行』と切り捨て、
> 六園寺を『アートを食いものにしたチンケな商売人』と批判する。
けっきょくアートマーケットの仕掛けをひっくり返しただけじゃん。
俺はさ、「芸術とかナントカっていう価値観には関わらない、私的な表現であるオタク行為にアートというレッテルを貼ってパッケージ化したチンケな商売人」って言ってもいいよ。
村上は。
これはモギケンの掲示板に書いた僕の文章。
僕自身がオタク業界の末端構成員の一人として、村上に対する批判と、オタクおよびアートという表現行為に対する僕の考えを書いておこうと思う。
この掲示板には熱くなって書き込んだので、typoがたくさんあるし、この場でしかわからない状況なんかもあるので、それらを整理し、僕の考えももう少しまとめてみよう。
細野不二彦は、自らは作品に関わらずアートプロデューサーとして名を成していく村上隆に批判的な目を向けているようだ。
しかし、それさえも俺に言わせりゃヌルいと思う。
オタク行為はオタクであるからこそ価値があるんであって、それをマーケティングルートに載せること、例えばギャラリーで個展を開かせて「一般の人々の」評価を得ることが何の価値があるって言うんだ。クダラネエよ。
ハイドランジャーの排水口が7つのモデルと9つのモデルがあって、どっちが前期型なのか、そういうことが問題なんだよ。オタクの世界じゃ。
そういうことが「わかる」のか?一般のヒトに。 そしてそういうことをわからせることに価値があるのか?
PDAにタミヤのステッカーをさりげなく貼るヤツ、そのステッカーを見て「俺はハセガワ派なんだけどね」とさりげなく言うヤツ。
俺はそういうヤツと酒を飲みたいと思うし、そういう話をしているとおもしろくて仕方ない。フルスクラッチって聞けばそれだけをツマミに酒が飲めるしご飯が3杯食える。
オタクの道はオタク。オタク道とは共に棲む者達の匠の技を切磋琢磨する場なのだ。
でも、それをギャラリーで見たいとかクリスティーズで高い値をつけたとか、ニューヨークの現代美術館に入ったとか、そんなことにはなーんにも、なぁあああんにも価値なんかない。そんなの共有なんかじゃない。
それはある意味、アートとは何か、ということと同様の問題なんだ。
アートとは、私的な行為なんだ。それを他人に評価なんてできやしないんだ、ほんとうは。
でも、「私」っつうのは社会の中で生きている。
もっとつっこんで俺流に言わせりゃ、「私」っつうのは他人も含んでいるのだ。
だから他人にもわかるし、影響を与えられるのだ。絶望的な断絶を承知しつつ、アートという媒介を通して語られる物語なんだ。
それをメタ化して何が得られるっつうんだよ。物語を否定して何を得たいと思うんだよ。私的な行為をメタ化したら残るのは流通のための仕掛けだけじゃねえか。
それはビジネスだ。金融商品だ。 作り出されたものには何の価値も無く、流通のための符丁、お札とかの貨幣と一緒だよ。
その行為そのものを俺は嘲笑する。むしろ、そういうのを知った上で敢えてその社会に対する位置をテーマに語っているとすれば、流通行為全体がアートかもしれないが… いや、そりゃあ穿ち過ぎ。ムズカシ過ぎて誰にもわかりゃしねえ。体感性のない能書きだけのシロモノなんてアートなんて言えないだろう。
オタクとかスーパーフラットとか、マーケットに乗せるための薄っぺらな符丁だよ。
どうせホラなんだ。
だが、ホラももう少しうまくつけよ。と俺は思うんだ。
のまdさん、今年もよろしく御願いします。
村上隆ですか、評価は難しいですね。ゴッホと彼の弟のテオとそして、二人の死後、資料を編纂してゴッホを世に送り出したテオの妻の三役を意識してやってるような人ですからね。
最近かれは観音様みたいな作品つくっているようだし、いずれ自分自身のこころの闇との対話が始まれば、作風もライフスタイルも変わると思うよ。
アトリエを運営していく手法とかは、近代以前のアーティストのやり方のまんまみたいで、結構おもしろいし、僕のやってる建築なんかは、もっとドライに作業分業化しているから、割と冷静に分析的に見れるんだけれどね。
近代以前の作家達は真筆かアトリエの協働作品か、なんてあんまり意識なかったんじゃないかな。
茂木健一郎さんが評価してる伊藤若冲の作品も真筆ではないという説あるようだし。西陣織の元図として描かれたもののようですね。モザイク図で位置と色彩(糸)を指定すれば、同じものが大量に生産できる。
僕も高校生の時に、20人ぐらいのチームで、体育祭のバックの絵を組織して描いた時に、パーツはグリッド図に分解して作業させたから、すぐにピンときた。
僕は思想信条は別にして、「多産的」な作家は嫌いではないんだ。だから暖かく見守ってあげてね。
追伸
茂木健一郎さんの掲示板にも、同じもの書き込んでおきました。
それと、のまdさんのコメントを僕とこのblogに転載しても良いですか?よろしく御願いします。
てつろうさん。
もちろん、転載OKです。私はわりとインターネットの作法については保守的な傾向で、転載や引用に断り不要という立場です。
僕は多作であったりマスが相手の作品というのを否定するつもりはありません。アールヌーヴォーなんて大好きだし、ウォーホルの「みんな私のようにすればいい」という発言もよくわかります。システムに乗せることでもたらされる何か、というのもあるんです。だって映画なんてその最たるものでしょう。
僕が村上を嫌っているのは、単純に彼の作品が醜いからです。借り物のアイデアを「マスはこういうのをオタク作品として認識するだろう」という作戦がオタク人の一人として言わせればみごとに外れているのです。オタクの個別性を排除しマスに迎合する作品なんて、マスの側が作り出す我々へのパロディであり嘲笑なのです。
もちろん作家へのパトロン、タニマチとしての村上は存在するのでしょうが。
しかし、オタクのギャラリーは四畳半のアパートの中にあり、鑑賞を許す対象はオタク仲間なんです。
ココに書いたら笑うかもしれないけど
1.アール・ヌーヴォって大衆に対すると言うと僕の中にあるものと「ずれ」を感じる。「いや、同じ事」だと言われそうな気がするけどね。本当は、ヌーヴォでもデコでも生活の中に取り入れたいのは山々なんだけど、少なくても僕には似合わないかな。あ、貝はその曲線美、ヌーヴォに通じるぜ!
2.アンディ・ウォーホルって恥ずかしながら知りませんでした。多分、マリリンとかは見たことあるんだろうけど。しかし、村上隆とは比較に出すのは次元が違うような...(ググって見ました)
#あーあ。こんな文章では理解されないか?だいたい、村上隆なんて読まないし。
茂木さんとこに、また書き込んでおきましたよ。
まあ確かに、少し前に彼がフィギュアを作り始めた頃に、メディアのインタビューで「二次元のものを三次元にしてみた時の発見」みたいなこと、言ってたけれど、フィギュア好きな人から見れば、そのような分析的な引いたメタな視点は嫌なものでしょうね。それは理解します。
伽っすさん、僕のblogにもコメントありがとう。
アンディ・ウォーホルも村上隆も別に知らなくても良いよ。
散文、分散化しちゃいますが
ありがとうございます。許しをもらえると楽になります。>てつろうさん
(最近精神的に弱っているのかもしれません)
僕が学生時代に初めて作ったフィギュア(?)は田宮の1/35のドイツ兵を芯に使った「コマネチ」でした。色も塗らず完成する前にどっかいっちゃいましたので、作ったと言えないかも。同じく1/35のフィギュアは早川文庫の「宇宙の戦士」の表紙絵にスタジオヌエ(加藤さん)が書いたパワードスーツを作ったので、近所の模型屋のコンテストに出品しましたが評価されませんでした。(おかしいな中学のときに作った石膏の手は美術の先生に絶賛されたのに(藁))
実は写真はマン・レイが好きです。ダダ、シュールりアリズムですね。ピカソやマチスは性に合わず、ダリやキリコが性に会う。そんな私は何なんでしょう?
イカロスさん、何か僕も偉そうなことばっかり言ってすいません。
茂木健一郎さんの伊藤若冲VS村上隆についてのコメントに刺激受けて、いろいろ思ったりしていました。
昨晩改めて、以前撮っておいた伊藤若冲の番組見直すと、彼の作品のコレクターのジョー・プライス氏が繰り返し出て来て面白かったです。彼は29歳の時、「動植さい絵」のモノクロの画集見て、どうしても実物みたくて8年間宮内庁に願い出て、適ったときは作品の前で涙が止まらなかったらしいです。その気持ち分かりますね。不思議な人です。
伊藤若冲は晩年に、五百羅漢作っていますが、想像するに村上隆は相当若冲の研究したんだと思う。最近の観音様的フィギュアも、その影響じゃないかなと感じる。ゆっくりと彼もそういった精神世界に没入していくに違いないと思いますね。
追伸
現代美術も面白いですよ。
僕の心の師である、福岡道雄先生の作品は、フィギュア的世界観というか箱庭のようなものですが、僕は好きです。
たぶん村上隆は、大阪のギャラリーで評価された部分あるので、見ているはずだし、同じような作品作るんじゃないかなと思いますが、僕はそれもOKですね。
福岡さんの適当な画像とか中々ないですが、こちら参考までに御覧ください。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/14-artup/140713-shinano-fukuoka/02fukuoka.html
では、また。