整合性は必要か

これはちょっと考えるべき問題だと思うなぁ。
僕は物語に起承転結なんていらないと思うし、謎解きなんて唾棄すべきと思ってるから、主人公がどんな言葉を使おうと、どんな間違ったことを言おうとやろうと、それはそれで良いと思う。
登場人物が知っている以上のことを物語の中で語る必要性はまったく認めない。物語の登場人物が古代のイヌイットならば、彼の語る世界は氷原だけで十分だ。
確かに芸夢堂 堂守の言い分は「一般的な読者」としての見方(の極端な部分)ではあると思う。

ぬる風呂:連作小説(1)『ソフトウェア』
★言葉について
その個人の言語体系については、一貫して整合性がとれている人や私のように破綻していて統一ルールのない人間もいる…
…気まぐれで、いろんなバックグラウンドをもつ登場人物たちをコントロールすることが無意味
(kobaコメント)

kobaは「作者(作家)としての技術を磨くべきだ」と考えて彼の言い分を認めたけれど、僕にとっては正しい言葉を使う努力は瑣末な拘り…という言葉が相応しくないとすれば二義的なことのように思う。そりゃ確かに正しい日本語と正確な表現で、物語が正しく語られているならそれに越したことは無い。しかし、僕にとっての<正しい物語>は、正しい日本語で語られているかどうかは関係が無い。
それよりも、もう少し考えてみるべきなのは……


「物語世界」とは何か、ってことじゃないかと思う。
例えば僕はkobaの「ソフトウェア」というタイトルが<正しいタイトル>かどうかが気になる。
例えばこの物語の中の「大きな犬に顔をべろべろ舐められる」エピソードが<正しいエピソード>かどうかが気になる。「穴に落ちるのは<正しい>が、犬に舐められるのはどうなんだろう」なんて考えるわけだ。「ひょっとすると穴に落ちるのは<正しすぎる>かもしれない」とか。
その判断は物語が完結した後にすべきだろう。尤も、正しいかどうかを決めるのは僕の中だけの勝手な解釈なんだが。(それでも僕はこの判断に裏づけの無い確信を持っている)
しばしば僕たちは物語そのものや、物語の登場人物に感情移入して、作者に文句をつけることがある。物語そのものが僕たちの所有物で、その物語世界を壊されることに抗議するかのようだ。
それは一方では滑稽な勘違いなのだろうけれど。
「勘違い」がフィクションであるのなら、その勘違いの方にこそ物語性を語る資格があるのではないか。
物語の結構が登場人物の行動を決める。
物語が要求する人物像というものがあって、それを正確に把握するのは何も作者だけとは限らない。場合によっては読者の方が作者よりもそれに気づいている場合もありうる。
多分、こうした現象は物語の原型…ここでカッコイイ言葉を急に使いたくなったので書くと、アーキタイプってやつが関係してるんだろう。
歯車を動かすために歯車の物理的な噛合いが関係してくるのと同じレベルで、物語を動かす歯車がきっとあるのだ。それを僕たちは日常の文化の中で自覚している。だから物語に共感することができるのだろうし、その物語に満足したり、あるいは首をかしげたりするのだ。
そして、その物語ってのは、僕たちが生活をし、いろんな局面で判断を行なう規範なのだ。
「間違った規範」の選択もやはり物語性の中にある。
そこで、僕は考える。
物語の中で、言葉遣いや、世界の整合性なんて、実はどうでもいい。
その物語が語る世界が正しければ、整合性なんて意味が無い。(あるいは二義的なものだ)
なぜならこの世界は整合なんてしてないからだ。
数多の物語のうち、整合していて受け入れやすい物語もあるのだろうけれど、そんなものは本当はわずかで、ほとんどの物語には解決がない。物語が整合していないことと、この世界が整合していないことは同一だ。
世界の解釈が物語に依拠しているのだから、全ての物語が整合しない限り、世界は整合しないのだ。
だからね。その世界を描くこと、物語を紡ぐ事に傾注すべきであって、起承転結だの、言葉遣いだの、ましてや「てにをは」だのに心を砕いたって仕方ないと僕は思うよ。そんなのは物語の共有にはほとんど関係しないんだから。
ところで…
ダサいタイトルでごめん。このタイトルは<正しくない>

9 thoughts on “整合性は必要か

  1. うーん。
    でも、バランス感覚が必要じゃないでしょうか?
    むかし、のまdに必然性がない、と指摘された者です(笑)まあ、これは物語世界の話なので合点がいきますね。
    あとは、誰に読んでもらおうと思っているか、ということが結構重要ではないかと。自分のためならば、どこまで破綻してもよいと思いますが、おそらく公開している以上、そうではないのなら、やはり帰結する部分を想定して書かないと終わらない小説、終われない小説、あるいは尻切れになる恐れが多分にあると思います。とくにこの手の小説は。
    すんません、ある程度は支持しますが(元の小説とのまdの意見)、個人的には単語のインパクトや奇抜なシュチエーションにもたれかかり過ぎに思えて、ちょっとぉ、なんで(^^;;
    ただ書きたいことの確信がなんとなくわかるような気がして、それそのものに手が届かないもどかしさを私は感じてしまいました。それそのものが意図なのかもしれませんが。
    私は、もっと計画された物語で同じようなことを書きたいのかもしれません。

  2. あ、改行は勝手にやってくれるんで、折り返し無しでずんどこ書いてくのが良いです。
    「バランス感覚」は禁句にしようよ。
    その方がどっちつかずになる危険性は少なくなると思う。
    例えばこのkobaの小説に整合的な解釈をしてしまえば「フラレ男の妄想」で解決しちゃう。んでもさー、そう書いてしまった途端に世界に広がりも何も無くなっちゃうんだよね。
    昔、高校生の頃「変身」を読んで、確か授業でだったか何だったか「この物語は労働者としてしか扱われていなかった主人公が蟲に変身することで無価値なものになることを戯画化したもの」と解釈されて、その途端、僕の中でものすごい不満が渦巻いたことがある。
    本当にたかがそんなことを表現しただけなのかよ、って。だいたいそんなのは小説なんかにしなくたって「人生は無価値」って6文字で済んじゃうじゃんかよ、ってさ。そんな解釈なんか絶対「変身」という小説を現してやしないよ。
    「整合」ってことにどんな意味を求めるかにもよるけれど、少なくとも僕は謎解きやら解釈やらすることで、それまで築いた世界を矮小化してしまうような愚はすべきじゃないと思うんだよね。物語の抽象化っちゅうか、記号化っちゅうか、そんなことは物語性の反対側にある行為だと思うんだ。

  3. どうも、kobaです。
    深い議論だ…。nomadはSF以外を読まないって聞いていたけれど、ここまで散文に対して考えをもっているとは思わなかったなあ。
    ところで、私は言葉を扱っている以上、ひとつのエンジニアリングでもあると思うので、「ここのコードの書き方はどうよ?」とかって指摘については、自分のやり方ではなくても、違うやり方でやる人たちの意見を頭から否定はしないし、耳を傾けるべき点は耳を傾けようと思っている。でも、基本的には誰に頼まれて書いているわけでもないし、最終的にその論を採用するか否かは、最終的にはそのコードがなにを目指すかで、それこそnomadの言うところの“物語のアーキタイプ”に照合しつつ、目指すべきところを目指す、のがベターだと思う。
    ところで、「大きな」犬に「顔をべろべろ」という記述はないんだ。でも、そのような印象が残っているのだから、そのように書いたわけでもないのに、そのように思える、という点で、もはや言葉というものは作者の手を離れているわけで、そこまではコントロールできないし、するのも無理であることもまた然り。
    なので、nomadの主張通り、使用する言葉が整合性をもっていようがいまいが、読者が字義どおり受け取るわけではないので、構造の「ただしさ」が議論されるべきはその通りかと。でも、それじゃ言葉を扱っている者として甘えが生じてしまうので、なるべく「ふむふむ」と思えるという点については“構造に照らし合わせて”可能な限り注意を払っていきたい、と考えているよ。
    ただ、私が語りたいことと人が読みたいことが合致するとも思えないので、最初から合致していないのなら、そのような言葉についての議論は、そもそも意味がないかもしれないなあ。

  4. kobaさん初めまして。
     本当はkobaさんのところにコメントするべきなのでしょうが、瑣末な整合性云々の書き込みがあったので巻き込まれたくないので敬遠しますた(^^;;
     本質的にはのまdの主張が正しいと思いますが、やや整合性に関して大らか過ぎるきらいあるので、その点に関して書きます。
     誰に読んでほしいのか?
     例えば、瑣末な整合性云々の書き込みをした人にも、今後読んでもらいたいと思うのかってことです。彼の指摘することは、書き手側からのつまらないもの言いだと思いますし、おそらく彼の書く小説は隅々まで整合性が取れているかもしれませんが、おもしろいものじゃないでしょうね(笑)まあそれはいいとして、誰が読んでも作者の伝えたいことがある程度は伝わるようにしたいのか、あるいは、ごく一部でも、例えば感性の部分など、が通じればそれでよしなのか、ということです。
     ここがぶれている場合、作者は誰に何を伝えたいのか読んでいる側がわからなくなります。勝手に解釈して読んでしまう人がいる一方、捉えどころを探して細かな整合性を追いかける読み方をする人もいる。勝手に解釈する人は、書かれていない部分や曖昧な部分に関してそれぞれ自分自身の持つ整合性に照らし合わせて解釈するので、最後には話の本質をも捉え方が変わってきたりします。
     それを由とする、というのもありですが、何かを誰かに語るのですから、通常は必要最低限の整合性というか整合性を持つ世界構築は必要なはずです。整合性を取り払うならば、それなりに意図していなければいけないのでは、とも言えて敢えて不整合性を狙わないのであれば、言葉で表現されたモノ、人、情景、あるはい時系列、必然性などは読んだ人がある程度は同じものを想起し理解し納得できないといけないわけですよ。もともと説明不足や整合性の欠落を無視してはモノは書けない、というのが一般的な小説のセオリーだと思いますよ。
     ということは、瑣末な整合性云々というのも、まるっきりは無視できない状況になるわけで、何を語り伝えたい人が誰でそれが伝わるかどうか、がやはり重要になってしまいませんか?
     kobaさんが書くものはイメージが先行し過ぎていて、個人的には読みにくく捉えにくくその分、部分である数行のそこここににキラキラした良さを感じますが、ご自分の書いている文章に酔い過ぎているように思います。残念ですが物語としての広がり、というようなものは私には感じられないので、応援してくれる人(のまdなど)に読ませることを前提にするのもひとつの行く道ではないでしょうか?
     で、どこへいくのか、という問題があって、連載小説のような感じで続けていくとその都度コメントがあったりして、それによってどんどん作者の書こうとしている姿勢や内容がぶれてくるから、どこへ向かうのか書いている本人もわからなくなったりしませんか?
     個人的には、完成したものを一気にアップしてコメントをもらった方がいいような気がします。伝えたいことが鮮明で姿勢も首尾一貫していますし、雑音もなしですから(笑)

  5. jinnkiさん、はじめまして。
    いろいろとご意見ありがとうございます。
    2点ほどレスを。
    >kobaさんが書くものはイメージが先行し
    >過ぎていて、個人的には読みにくく捉え
    >にくくその分、部分である数行のそここ
    >こににキラキラした良さを感じますが、
    >ご自分の書いている文章に酔い過ぎてい
    >るように思います。残念ですが物語とし
    >ての広がり、というようなものは私には
    >感じられないので、応援してくれる人
    (>のまdなど)に読ませることを前提に
    >するのもひとつの行く道ではないでしょ
    >うか?
    すみません、私にはイメージ先行とか、イメージ後行とかいうことがよくわかりません。また、イメージが先行したら、どうなにが悪いのかもわかりません。
    一読者としては練りに練ったトオマス・マンや漱石のような散文も好きですし、アン・タイラーやS・エリクソンのような物語性を放棄した散文も好きです。基礎技術は大切だと考えますし、私のそれが伝わらないのなら私の未熟さかと思います。ただ、自分の場合、狙いを研ぎ澄まし、設計という概念をもって散文を構築していくことに腐心するつもりはないです。
    なので、ご指摘されているように、自分に酔っているかもしれません。はぐらかされた、とか、きちんと読みたい!と怒りだす方がいるのも事実です。
    ただ、自分が目指しているものはそのようなものでございますので、その点に関しては、jinnkiさんと私の間にはメコン川ほどの深くて長い河が流れている気がいたします。私はjinnkiさんの仰られれるやり方もあると思いますし、また私のやり方についてなにか効能を垂れた覚えもございませんので、メコン河が流れていたとしても、ケ・セ・ラ・セ・ラかと。
    私は日常のブログでの表現に飽き足らず、作文として散文を書いているだけですので、拙文によりご気分を害されたら、それはごめんなさい、と誰にともなく心のなかで謝る用意ぐらいはしておりますが、まず大前提として自分が自分の楽しみのために書いていることをご理解ください。
    ですので、ひとつの作品として俎上にあげていただき、“自分に酔いすぎだろ、コラ”みたいな批評(?)をいただけるとは作者冥利に尽きますが、自身のやり方はつい最近始めたばかりの手法でもないので、これを変えるということも考えていません。
    私のやり方を端的に言えば、小説作法とは相容れないかもしれません。連作と記したのも、1本1本についての詩作の延長だと捉えています。
    心はアモルファスだと思うで、それを最初から強度設計したり、狙いはこうだから、こう書くというやり方は、細部において採用しておりますが、全体としてはどこに流れ着くかは主人公ないしは私の心の赴くまま、です。
    なので、それが堪えられない、あるいはお前の書いているものはてんでなっちゃいない!というご批判は甘受する気持ちもありますが、死人や病人が出たとしても、やめる気もないです。
    なので、たった一人だけ“もっと読みたい(含む自分)”というリクエストがあれば、書き続けるので、ご指南いただきましたように、“応援してくれる人(のまdなど)に読ませることを前提に”続けさせていただきます。
    >載小説のような感じで続けていくとその
    >都度コメントがあったりして、それによ
    >ってどんどん作者の書こうとしている姿
    >勢や内容がぶれてくるから、どこへ向か
    >うのか書いている本人もわからなくなっ
    >たりしませんか?
    ご心配いただき、ありがとうございます(笑)。
    元来人のいうことをあまり聞かない性格ですので、本人は一貫してやり遂げようと考えています。
    ただ、“○○さんはこういう部分が好きなんだ、へえ”と、○○さんに受けるべく書いてしまう誘惑を抑えることが大変かもしれません。
    ということで、完成させて発表というのが無難ですね。でも、いろんなことをひっくるめて楽しいです。また、新聞連載しているプロの作家というのは、凄いな、と感服した次第です。
    ええと、一応自分の基本的な考えをなるべく正直にお伝えしたつもりです。そして、当該コメントを含めて拙文におつきあいいただき、お読みいただいたこと感謝いたします。
    koba

  6. kobaです。ええと、一気に人様のコメント欄にカキコするとうろ覚えや粗が目立ちますね。すみません、訂正です。
    >アン・タイラーやS・エリクソン
    自分で自分に突っ込みを入れています。だれだよ、アン・タイラーって。アン・ビーティーと作家でもないリブ・タイラーがまざっていたようです。でも、ここで書きたかったのはジェイ・アン・フィリップスです。すみません。うろ覚えです。80年代の作家が混在していた。(恥)
    >はぐらかされた、とか、きちんと読みたい!と怒りだす方がいるのも事実です。
    いまのところ該当するクレームはないので、正確には「怒りだす方がいるということを認識して書いていることも事実です」。

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