強者の論理 弱者の論理

いやあ、足のケガで家で大人しくしていますので、家族が買い物に行っている間に宿題を片付けようと思いますよ。
このネタは、おそるおそる書いております。僕が当初書こうと思っていたことが180度変わってきてしまったからです。
当初僕は「今はネット作法を知っている我々が強者!」という話を書こうと思っていました。
けれども、いろいろな“事件”に遭遇して、僕は考えを改めました。
僕は弱者です。
僕がネット作法を知っているのは、弱者ゆえにそれを知らなくては生きていけないからです。
僕はジャングルの中で息を潜めているネズミに等しい……


gooブログの Hot Wired Japan「先端人Web日記」コーナーで連載されていた小倉秀夫弁護士のblogが終了しました。
この小倉弁護士のblogは「炎上」の顕著な事例としてネット内はもちろん新聞紙上で取り上げられるなどいろいろなところで話題になっていましたのでご存知の方も多いと思います。
僕は偶然、炎上の始まりから小倉弁護士のblogをヲチしていました。いくつかコメントを残したこともあります。

小倉秀夫の「IT法のTop Front」:Au Revoir!!
Hotwiredの特別企画として開設されてきたこのblogですが、Hotwired Japan 側のリニューアルに伴い、今月いっぱいで終了することとなりました。

「短い間でしたが応援ありがとうございました。秀夫くんはみんなの心の中に生きています。またいつかお会いしましょう!」
週刊少年ジャンプの連載マンガが不人気で打ち切られたときに目にするようなおざなりなお別れの言葉でした。
僕がこのblogをヲチしていた間じゅう、次から次へと刺激的な話題は出てきましたが、次から次へと喉に骨がひっかかるばっかりで、問題だけ提示して結局何一つ総括しませんでした。カタルシスの無いblogの終焉でしたね。
そんな具合にちょっぴり滑稽で、それでいて物悲しい終わりを迎えたのですが、しかしこの続きは赤丸ジャンプ…じゃなかった、Annex of BENLIで続いています。相変わらずです。
この小倉弁護士の個々の主張についてここで詳細に検討を加えるつもりはないのですが、彼のblogから発せられたメッセージは、今のネット社会ってものを測るリトマス試験紙になるんじゃないかと思います。
僕はこの小倉弁護士のblogを中心にいくつかのblogの炎上を知りました。
blogの炎上のパターンには次のようなものがある、とplummeさんはこう書いています。

世界の中心で左右をヲチするノケモノ – 俺が見てきたこと【観察記まとめ4】
1:頓狂な見識をばらまく(燃料仕込み)
2:善意の第三者からツッコミが入る(マッチが擦られる)
3:ツッコミに罵倒・嘲笑・威圧・不誠実で返す(着火&燃料投下)
4:議論を求めて侃々諤々/野次馬流入(炎上第一段階)
5:根拠なき勝利宣言/呆れてまじめな発言者去る(崩落開始)
6:相対的に厨・粘着が増える/野次馬流入(炎上第二段階)
7:状況悪化にうろたえて思わず燃料投下(爆発)
8:荒れ果てるor寂れきる(炎上最終段階)
9:逃亡(焼失)
10:現場検証(まとめサイトや記念館建立、たまに自己批判)

僕はこのパターンに賛成します。
しかし、なぜ、blog主は、このような行動を取ってしまうのか。
確かに、ネット作法に疎い場合もあると思います。けれども、「gooやinfoseekが立ち上がった瞬間から検索エンジンを利用してきた」としょうもないことを豪語する団藤保晴氏のblog ブログ時評 もまた、炎上にあっています。
なぜ、ネット経験の長い弾道氏までこのような間違いを起こすのでしょうか。
僕は彼らはスケール感を見失ってしまったからではないかと思うんです。
彼らは多分、世間では認められた人(あるいは認められていると自分自身が思っていた人)なんです。
日頃、敬意を持って迎えられているので、多少の発言の齟齬は大目に見られているんです。
社会的な活動全体によって彼らの人格は評価されているために、あるほんの一部の行動に対してとやかく言う人はいなかった。
もちろん、plummetさんが「頓狂な見識」というような発言や行動はリアルにもあったのかもしれませんが「先生」とか「ご隠居」などと呼ばれるような人たちですから面と向かって批判する人はいなかったでしょうし、第一そうした「頓狂な見識」を開陳する相手の数などたかが知れていたので世間から何事か言われるというようなことはなかったんです。
しかし広場のまんなかで拡声器で演説するに等しいblogを使い出したところから、そういうわけにはいかなくなった。
大きな声は同意してくれる人の耳にも届くし、批判する人の耳にも届きだしたということでしょう。
彼らは現実世界の自分のスケール感を持ったまま、ネットというスケール感の希薄な場所に乗り込んできてしまったんです。
僕らはネットの中では「おもしろい」が全てです。
権威には興味が無い。
実際の権威権力の力関係はネットの中のページビューとは比例しません。
同じく、実社会の権威権力とネットの中の説得力とは別物です。
実社会では、年齢、性別、職業・職歴・役職、学歴、住んでいる地域、地縁血縁、話し方や物腰、今までの実績 …などなどで評価されています。
しかしネットの中では、今、ここで発せられた言葉が全てです。
どれほどすばらしい活動をしてきた紳士でも、ネットの中でセクハラをしたら、彼はエロオヤジと評価されるんです。
こんなのは言い古された言い方なんですが、彼らはそれに気づかなかった。
「腹に落ちる」というほど体感的に納得できていなかったということなんでしょう。
炎上したサイトが、実社会ではそれなりに認められる立場の人のサイトであることは、これは故ないことではないと思います。
彼らの実社会での自己イメージと、ネットの中の評価のギャップを修正できなかったから
・過敏にイライラし
・自分が正しいことを証明するために過激にコメンターを批判し
・決して反省することなく繰り返す
  ってコトであろうと思います。
インターネットの海の中では、ネットでの発言者(この場合はblog主)の言葉の重みは他の発言者の言葉の重みと何も変わりません。
僕ら市井の小市民は、自分の発言が実社会の中では卑小なものだと気づいています。
だからblogを始めたからってネットの中で自分の声がいきなり偉大になるとは思いません。
しかし、実社会で認められた人は、自分の言葉がネットの中では急に卑小になってしまうということを受け入れられないんじゃないでしょうか。
この受け入れられない、というのは重大なことで、彼らは、自分たちが実社会でも発信者側にいることが多いために、問題の修正を行なうのに億劫なんですね。相手の意見を否定することが自分の意見を守ることだと思っているように見えます。
本当は、批判を受け入れて、自分の考えを再検討することに価値があるんですけどね。
そうした批判・論議の往来は、blogというツールを使うことで、グリッドコンピューティングとなります。そしてそのlogはリレーショナルデータベースとして機能していきます。
「受け入れて・投げ返す」ということこそクリエイティブな行為なんです。
僕は自分が弱者であることに気づきました。
僕は実社会では権力に簡単にひねり潰されてしまうネズミみたいな小市民です。
しかし、ネットの中では僕の言葉は総理大臣の言葉と同列の重みをもっています。
ネットは公平というよりも、膨大なデータの量の中では誰かの言葉の重みなんていうのは誤差ほどしか差が無いってことなんでしょう。
ネットで総理大臣と言葉の重みが同じになったからといって、そこを勘違いすると、僕らは、彼ら強者に簡単にひねり潰されてしまいます。
僕の勤める会社にもたくさん欠点はあって、僕は実名でそのひとつひとつをここで詳細に取り上げて批判することは可能です。
しかし、その話をどこからか会社が聞きつけたりしたら僕はひとたまりもありません。
もしその批判がまっとうなものだったとしても、自分に不利益がないだなんてことを信じるほどオヒトヨシじゃあありませんよ。
僕は社会的に弱者であるからこそ、情報の発信には慎重でなくてはならないと思います。
「雉も啼かずば撃たれまいに」ならぬ「記事もなかずば」でしょうか。ああっくだらん
だからこそ、批判には真摯に耳を傾け、間違ったところは修正していかなくてはいけないのだろうと思います。
それがネットという海を渡るコツ。ジャングルで生き延びるコツでしょうね。
-参考-
若隠居の徒然日記:小倉先生、それ、自分にはねかえってますよ
音極道茶室: 「匿名実名」論争にケリをつける現実解
真性引き篭もり/新聞は弱者の娯楽。インターネットは強者の道具。
週刊オブイェクト: 実名系ブロガー橋本尚幸(余丁町散人)氏の場合
QuadraFaceLounge – ネタ好きなワケ
-すぺしゃるさんくす-
Annex of BENLI: 発言者のトレーサビリティを高める立法の合憲性

6 thoughts on “強者の論理 弱者の論理

  1. 炎上については、僕自身はそれほど自分の見解を持っていませんが、
    http://ised.glocom.jp/ised/
    で、色々と興味深い話が読めるので、今読んでいる途中です。参考までに。というか 多分知ってると思いますけど・・・。

  2. isedって聞き覚えがあるなあ、と思ったら、ああ、小倉氏も参加してるアレなんですね。
    なるほど…なんかますます自説に自信を深めました。
    こういうアカデミックな場に参加すれば「自分こそネット文化のオーソリティ。アカデミアの中で文化人と共に体系的に思索している自分は市井の通俗の者とは比べるべくも無い。文化人もわかってくれている」と思うことでしょうね。
    アカデミックな場も、実は「半径50mの文化圏」なんですが。

  3. んん アカデミック も 政治 も 市井もオタクも
    なにもかもあらゆるものを「半径50mの文化圏」に
    してしまう可能性を持っているのがネットのなかも
    しれませんね。
    文化の分断というか、そのisedで語られていた多元的
    コミュニタリアニズムというか、脱社会というか。
    いずれにしても 良くも悪くも激動の時代に入って
    いるような気はしています。ヒトにとって幸いなのか
    そうでないのかは微妙な感じです。そもそもマスメ
    ディアの時代から較べてどうなのか 良くなったのか
    どうかも、いまのところ判断しかねている今日この頃。

  4. なるほど~。
    全ては平等に価値がない。
    という事だと勝手に解釈してしまいました。


  5. 「全ての人は無駄な人生を生きている」
    とは俺語録ですので、正解です。
    皆それぞれ、ドメスティックなヒーローでしかありません。半径50mの文化とはそういうことです。50m先には全く違う、別の価値があるのです。

  6. まぁまぁ そこまでかたくなに考えずとも(笑)。
    それはそれで事実であっても、同時に、例えばこの島に
    住んでいるというだけで、ヒトであるというだけで、
    地球に生きているというだけで、同じ何か(価値でも命
    でも意識でも・・・なんでもいいけど)を共有している
    とも言えるわけですから。

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