上達するということ

昨日は日本武道館へ合気会の全日本合気道演武大会を見に行ってきました。
えーーー。
えーーーーとですね。
我が身を振り返らず言いますとね。
ピンキリですね。
あっそこモノ投げないで「なら試しにいっちょ揉んでやっか」とかいわないであたたたたたいたいいたいいたいっタップしてんじゃーんしてんじゃんかー最初からー
あー、肩はずれちゃいましたよー腰折れちゃいましたよー首モゲちゃいましたよーひどいなーもー最初から謝ってんのにー
いやま、やっぱり大きな団体だけあって、いろいろな合気会の一門の団体が出てきて、それぞれ団体ごとに演武をするわけですけどね。団体も同好会のようなものから「○○流××会」みたいな看板を掲げたものまで各種出てるわけですから、その団体に応じていろんな差があるのは当然です。
ただ、名前とか所属団体とか参加人数とか紹介の内容と必ずしも相関がないのがおもしろい。
……


「XXカルチャーセンターでケガをしないように和気藹々とした中で楽しんでいます」という団体と「武道の精神に則り、○○の極意を中心においた取り組みをしています」という団体のレベルが逆転してるぅーみたいな。
「おー?あれで白帯ー?? キビシィー」と思うような人がいる団体もあれば「ほーーーー。あれで袴が履けるのねーへー」というような団体もある。
こういうのを見てると、所属する団体によって全体の雰囲気とか性格とか全く違うのが見て取れて、なかなかおもしろいです。
中に、女性が目覚しい動きをしてる団体があって「うわ。それ本気だねー!!」と嬉しくなるような方々もいましたよ。二階席から見てるのではっきりとは見えないのですけど、小娘よりも少しオトナな感じのように見受けられました。
目を見張るのはやはり師範クラスの方の演武ですね、やっぱり。流れるような動きを見てると、まるで自分でも簡単にできるような気になっちゃうくらいスムーズ。
BMXとかトライアルバイクで丸太セクションを軽々とクリアして行くのを見ると自分でもできそうな気がしてくるでしょう? そんな感じで、力みもなく飄々と軽々と技が自然に繰り出されるのを見ると、なんだかそれが当たり前のような気がしてくる。
ただ、僕には合気会はちょっと合わないな、と思えるのは、やっぱり「極まってないのに投げられる」「触ってないのに投げられる」という場面ですね。
師範クラスの方にもなれば、極まるとか極まらないとかは関係ないのかもしれません。技が極まるかどうか、などというのは極まるに決まってるのだから、わざわざ極めなくても、手続きとして投げられれば事足りる…ことなのかもしれませんがー。 しかし僕にはそういうのはリアリティは感じないんだよなー。
僕が通ってる雄神会の先生はちゃんと極めますからね。脳の中で「ぱきっ」と音がする(ような気がする)くらい。ですから習ってる僕たちはお互いみんな、それぞれ極めます。
極まっちゃって痛いから飛んだり投げられたり身動き取れなかったりするわけで、その痛みの中に武道としてのリアリティーがあるんじゃないの? と思っちゃう。
師範の中で「気で投げる」というのを見させていただきました。息をふーっとやると相手が吹っ飛んでました。超能力合気。
…しかし、それは僕には合わないし、目指すところでもないんですよね。
で、まあ、へっへっへ。
いろいろ見比べてみると…
僕が教えてもらってるところは、けっこういいんじゃなーい? イケてんじゃーん。
まあ、所属してる団体がどんなに良くても、やってる俺がダメなら何にもならんのですけどね。
先生は「ホントは本気で教えてみたい」って仰ってるんですけど。すんません、ヘタレなもんで。
ドラネコ商会の方も顔を出してません。ここ半年くらいでちょっと職場の環境が変わって水曜日になかなか早仕舞いができなくなったせいも…言い訳すまん
せっかく雄神会とドラネコ商会という立派な道場に通ってるのにー
…だんだん中年のオッサンの愚痴と言い訳になりそうなのでヤメ
しかしですね。
これでも少しは上達…と言うにもおこがましいですけど…少しはできるようになって来たげな感じなんですよ。
いえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえ技なんて滅相も無い。
まだわたくし程度の者が技がどうこうだなどとは。未だに斜行法もできないんですから。
何がって申しますとね。
受身ですわ。
始めた当初はあれほど体中に痣と擦り傷、打ち身だらけだったのが、不思議と少なくなりました。
「袖持ち受身」と言って、相手の袖を持って空中で受身を取るのがあるんですけど、今までそれが全然ダメでしてね。何回やってもドスーン、バターンとえらいことで、4,5回もやるとぜいぜい言い出して、もう勘弁してくれ、という気になったものなんですけど。何回やっても、何度注意され、指導を受けても変わりませんでした。
それがある日、つい先日、突然できるようになりました。
どうやら、着く手を早く出せるようになったみたいです。
できるようになると、なぜ今までできなかったのかがわからない。
くるっと回る時に手を着く。手を着くから衝撃が無く、着地できる。
今まで何やってたんだろ。なぜ手を出さなかったんだろ。手を出さなかったら痛いじゃないか。試しに手を出さずにやってみよう…とすると、もうできない。ヘタな受身の方を一瞬で忘れちゃってるんです。
そりゃまあ、ヘタな受身は痛いからね。やっぱり痛くなく受身したいからね。
上達というのはこういうものかも知れません。
そういえば、バイクでうまくなったなあと自分で感心したのがGSX-Rで雨の日にパニックブレーキになった時、タイヤが滑るとブレーキを一瞬放し、知らず知らずポンピングブレーキとなってABSのように止まった時でした。
あるいはスキーでくるくると回転ができるようになった時ですかね。
足の裏の感覚だけでエッジをかけたり開放したりを連続的に行なってくるくる回るのが。
できてみりゃなんてことはなくて、今までどうしてできなかったのかがわからない。
結局「普通にやってりゃできるようになるよ」みたいなことしか言えなくなってしまう。
「できないことができるようになること」の本当に肝心なところは、言語化できない部分にあるんじゃないでしょうか。
だから経験知というのは言語化できない。言語化すると詩のようになってしまう。あるいは物理現象として分解し、変換して言語化しても、実際にそれを受け取る相手には意味が無い。
「ブレーキしてタイヤが滑ったらブレーキを離せ」なんて言うのは簡単だけど、話だけでそれができるようには決してならないですからね。
上達というのは、全く遅々として進んでいないように見えたり、ある日突然できるようななったりするもののようです。
やっかいなのは、こうした身体的な経験というものは、全く上達しつつあるという実感を持ちにくいということですかね。しかし、逆に、バカみたいに黙々と続けてさえいれば、きっと上達はするだろう、ということでしょう。

4 thoughts on “上達するということ

  1. うへえ。きっとさぞかしノビ君とか上達してるんでしょうねえ。
    近々お伺いしますので、その節はぜひよろしくお願いします。
    オサーンですので何卒どうぞお手柔らかに。最近腰とか膝とかアレで、高血圧と糖尿病と勃起不全でその。あ、入れ歯が。

  2. 少しずつ上手くなるという考え方は正しくなくて、あるとき急激に上達するものらしいですよ。
    聞いた話だからソースはありませんが。
    その伸びが何回訪れるかが鍵らしいです。
    それと、今は皇紀2666年です。
    2600年ではありません><
    亀レスですけど一応。

  3. > れすたとさん
    「急激に上達」って言っても、それがいつ来るのかわからんのがツライとこですよね。練習している間はツライばっかりで。痛いとか苦しいとかよりも自分がちっともうまくならないのがツライんですよね。
    あ、それと皇紀の件。
    ありがとうございます。訂正しておきます。

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