エゴイストの論理 -代理出産と三宅島レース-

僕は以前から言っているように、エゴイストなので、倫理観とかモラルとかいう話は苦手だ。
「社会的にみて許されない」「社会正義に反する」とか言う言辞を見ると辟易する。
「社会」ってものには人格なんて無いだろう。 よしんばあったとしても、まるで自分が社会を代表しているかのように振舞うなよ、と言いたくなる。
けれども、僕も社会の中で生きているので、世間の人が言うところのモラルから全く自由でいるというわけにはいかない。
僕も僕自身のモラルに基づいて行動しているが、僕のモラルも社会から得た情報や条件で培われたものだし、僕自身の生活にしたって社会にあるモラルを信用することで成り立っている。
しかし、自分のモラルと世間のモラルがぶつかることもある。
僕は自分のモラルを通したいと願うが、そうもいかないことも多い。
そんな時にはたいていは諦める。
人の目に着かぬ所で、こっそり自分のモラルに従うということもあるかもしれないが、そういうことはあんまり大っぴらにすることではない。なるべく軋轢無く過ごしていくのが世知というものだ。
最近ニュースになった、タレントの高田夫妻の代理出産について、玄倉川さんは否定的なエントリを上げている。
玄倉川さんが言わんとするところは理解できるが、僕の視点や考え方とはズレるところがあり、考えさせられた。
玄倉川の岸辺 「産む機械」を肯定する世論
玄倉川の岸辺 「代理母」報道の偽善、あるいは認知の歪み
玄倉川の岸辺 グロテスクな未来
玄倉川の岸辺 代理出産=「寄生出産」
玄倉川の岸辺 ID:ktL3v1/80 の意見
玄倉川の岸辺 「代理出産」賛成派の意見 その1
玄倉川の岸辺 「代理出産」賛成派の意見 その2
……


玄倉川さんは

「柳沢厚生労働大臣の「産む機械」発言を曲解して叩いた世論が、女性を「産む機械」扱いする代理出産に肯定的なのはおかしい」
「代理出産には危険が伴うし人身売買と同等の構図が見える」

と主張している。
(上記は意訳。正確にはリンク先を参照のこと。もし僕の捉え方が間違っていたらご指摘を)
僕は前述の通り、エゴイストなので、他人が子供を作ろうが作らまいが、他所からもらって来ようが買って来ようが、人為的な代理出産だろうが興味は無かった。
代理出産が選択可能な状況にある人が望むなら、勝手に選択すれば良いと思っている。
僕は「代理出産賛成」「臓器移植賛成」「命の選択賛成」「クローン賛成」という立場だ。この賛成の度合いは強弱はあるものの、規制することに積極的ではない。
規制論者は倫理的側面から、制度上、規制すべきだという論陣を張るようだ。
確かに与え-与えられる関係が成り立つとき、その強度によっては搾取であったり詐欺であったり強奪であったりする場合はあるだろう。
しかしそれは当事者間の関係での話しだ。他者がそれに介入する時、往々にして恣意的で一方的な傲慢な姿勢をあらわすことがある。例えばチャドルだ。
僕は社会の中のモラルなど、半径50mの文化なんだろうと思っている。道を隔てた向こう、川を隔てた向こうでは別の論理と倫理がはたらくのだ。
チャドルが川のこちら側では女性の抑圧の象徴であっても、川を渡れば女性の慎み深さをあらわす美徳であり、秘められたちょっとしたお洒落の道具であることは大いにあるだろう。
川を渡ってチャドルを剥ぐような行為を開放と呼ぶか、蛮行と呼ぶかはお互いの関係にかかっている。
そして僕は「人権は金持ちの贅沢品」だと思っている。多分、東南アジアやアフリカに行って、その社会を見てきた人は、賛成してくれるだろう。僕は彼らの視点から学んだつもりだから。
だから人権をアプリオリなものとして設定し、そこから外れる事態を倫理的に批判することには違和感を感じる。「その倫理って、幸せなあなたたちが作ったおとぎ話ですよねえ。そのおとぎ話は幸せでない人たちには通じませんよねえ」と。
そして、このおとぎ話はしばしば破れる。
人が「自分は幸せではない」と思ったときに。
自分を幸せと思えない人は川を渡ってチャドルを乞いに--赤ん坊を乞いに行く。
僕は高田夫妻がやったことは馬鹿げていると思う。僕ならそんなことはしない。
高田夫妻にはもっと別のやり方があっただろう。彼らが幸せを感じさえすれば解決した話だ。
それは子供を作ることでなくても良かったし、ましてやこの馬鹿げたことに他人を巻き込んで自分たちの血の繋がる赤ん坊を得ることで無くても良かったし、法律を曲げるよう働きかけることでもなくても良かった。
しかし、それは僕個人が持つ感想だ。僕は彼らに意見するつもりは無い。
僕自身がたっぷり馬鹿げたことを重ねてきているのだから。
彼らは馬鹿げたことを選んでしまった。それが馬鹿げたことなのかどうか、気づかなかったかもしれない。それが馬鹿げたことだと気づけば、他のやり方を選んだかもしれない。あるいは馬鹿げたことだと気づいていても、無駄な努力を続けたのかもしれない。
向井はすでに土俗的な神話に足を踏み入れてしまっている。
美しい女房は子を失い、妬みと恨みと絶望で気が狂い山姥となり、人の子を喰らう。
物語と一体化した狂気は、倫理や論理では救われないのだ。
しかし狂気もまた人生である。無駄な努力を重ね、足掻くことこそが、人生だ。
いずれにしろ僕たちは死ぬ。何もかもを失う。僕たちの生に価値は無い。
それでも、ほんのわずかな希望にすがって足掻く。
滑稽だ。人によってはグロテスクだというだろう。しかしそれが人生だ。指差して笑う者もやはり滑稽でグロテスクな人生を生きるだろう。
幸いあれ。
僕は彼らの足掻きを痛ましく思うが、僕に出来ることは切ない視線を送ることだけだ。
彼らの人生は彼らだけのものだから。
繰り返すが、僕は「代理出産賛成」「臓器移植賛成」「命の選択賛成」「クローン賛成」だ。
ついでに言えば「麻薬」「臓器・人身売買」「殺人」についても、反対とは言い切れない。
僕らが住む世界での倫理、人権という概念は普遍的なものではなく、相対的なものだからだ。
僕はアルコール中毒になった従兄弟のことを思う。
僕は自殺した友人のことを思う。
僕は緩慢に死を選ぼうとしている友人のことを思う。
僕は目の前で可愛く微笑む心臓病の女の子のことを思う。
僕は兄弟として育てられた牛が死んだ絶望と怒りで、近隣の部族民を殺す少年のことを思う。
彼らの前では、僕は倫理や人権について語る言葉を持たない。
僕が彼らの前に行った時、僕は倫理や人権ではなく、自分の持つモラルによって行うべき選択をする。その選択はつまりはエゴイズムだ。
僕たちは、非合理な原理によって行動している。社会全体の民意は効率的な合理主義ではなく、近視眼的な情動によって行動する。鳥瞰すれば、オカルトで動いていると言っていい。
だから世間では「『女という機械』という言辞を非難しつつ、高田夫妻に同情する」のだ。自分自身を機械と呼ばれ、貶められたと非難し、子供を失ってしまって悲嘆にくれ必死の努力をする高田夫妻を人情話として認識するのだ。テレビ画面に映る涙だけで判断していると言ってもいいだろう。
だから、代理出産の規範について議論するのであれば、倫理や人権、ましてや情緒に基づいた議論をしてはならないと思う。
僕たちは涙の数だけで容易に判断を見誤ってしまうからだ。
「寄生出産」「借り腹女」「品定め」「かわいそう」「グロテスク」といった情緒に訴える言葉を用いて誘導するのは、エゴイズムのぶつかりあいにしかならない。
僕のようなエゴイストや、狂った執着に囚われた者にも届く言葉で語らなくてはならない。
つまり、リスクとコストについて語らなくてはならないのだ。
玄倉川さんのエントリのうち、このコメント欄の「ライアン」さんの意見には強く共感した。

玄倉川の岸辺 「代理出産」賛成派の意見 その2
Unknown (ライアン)
2007-04-18 10:32:27
う~ん、僕は一概に賛成とも反対とも言えません。
少なくともシステムが整備されていない現状では、何らかの事象が起こった際に対応できないというリスクを鑑みると賛成はできません。保険の問題、正当な報酬のレベル、国家などの第三者における訴訟リスクのヘッジ、事象の際の責任の所在などがクリアになっていませんし。
ただ、逆に現実的な問題についてのシステムが整備されてしまえば、後に残るのは倫理的な問題でしょう。これについては、個々人それぞれ異なるものだと考えるので、各々の倫理観に拠って判断すれば良いことかと思います。
出産に伴うリスクも理解したうえで代理母になるという選択をする女性がいるならば、僕はそれでいいと思う。
「出産をビジネスにするな」という主張は一見凄く耳障りがいいのですが、ある特定の観点からの倫理観の押し付けに見えなくもないので。

システムを整備するには仕様が必要だ。
仕様を作るためには世論が必要だ。
その世論を形作るのが公器というものだろう。
僕のようなエゴイストも、社会で生活している。僕がエゴイスティックな行動が取れるのは、社会の側の寛容とインフラがあるからだ。
エゴイスティックに振舞った挙句、社会からはじき出され、インフラを利用できなくなってしまっては元も子もないではないか。
公器というのは、エゴイスティックな当事者たちの利害を調整する場なのだ。
当事者全体に最大限の利益をもたらすか、最小限の損失を負担させるかさせるための場なのだ。
高田夫妻と、代理母、そして生まれる/生まれた子供に対して最大限の利益/最小限の損失を担保させる場所なのだ。
今、倫理よりも優先して、この仕組みのリスクとコストを話し合うべきなんだろう。
すでに技術はあるのだから、それをする、しないという選択ができるだけの材料が必要だ。
でなけりゃ、いつまでも馬鹿げた選択をしつづける山姥はいなくならない。
エゴイストたちによって、インフラを整備する機会は失われ、あるいはすでにできているインフラが壊れていってしまう前に、情緒によらない議論が必要だ。
システムとして十分整備された後で、倫理について話されるのだとすれば、エゴイストの僕も譲歩することは容易だろうと思う。
最後になって、やっとタイトルの「三宅島レース」の話題を。
僕は三宅島レースには反対だ。実に馬鹿げたレースだと思う。
安全施策もろくすっぽされていない公道と、訓練されていないわずかなスタッフでレースをやるのは危険すぎる。
125ccのレーサーが時速何キロ出るのか知っているだろうか。
ホンダの2サイクルのレース専用車「RS125」の最高スピードは200kmを超える。
エキシビジョンで走るバイクは1000ccだという。1000ccのスポーツバイクの最高速は時速300kmを容易に超えるのだ。
事故があればバンバン人は死ぬだろう。近隣に緊急手術ができる病院なんてない。
そんなところでレースをやるなんて狂気の沙汰だ。
しかし、エゴイストである僕が三宅島レースに反対するのは、我ながらおかしいと感じていた。
僕が個人で勝手に走るというなら、それは仕方ない。それがエゴイストの論理というものだ。
勝手に走って勝手にバンバン死ぬなら、それもエゴイストの選択のひとつだからだ。
今回、代理出産について考えていて、やっと気づいた。
このレースは公器が企図したものではないか。
本来、エゴイストたちの利害の調整をする場が公器の役割だ。
エゴイストたちに「失敗は自分の命で償え」と丸投げするのは公器の役割ではないではないか。
調整をせずに、自治体の利益だけを追求するのは、自治体自体がエゴイストの一人になっているのに過ぎないではないか。
公器としての役割を放棄している三宅島レースには、完全に反対だ。
もしやるんなら、ちゃんと金払え。
1000億円くらい払って、道路を整備して、十分に訓練されたコースマーシャルも100mおきに用意しろ。
島内に緊急手術が出来る設備と人員の病院を用意しろ。
それが責任を持ってレースを主催するということだ。
走る側だけに一方的にリスクを押し付けるのなら今すぐやめちまえ。
お前の欲のために人身御供を捧げるつもりはないのだ。石原。

12 thoughts on “エゴイストの論理 -代理出産と三宅島レース-

  1. トラックバックありがとうございます。
    私自身は「代理出産」「三宅島バイクレース」のどちらについても「倫理」を基にした批判はしていないつもりだったので、nomadさんのご批判はやや心外です。
    「代理出産」に反対するのは、自分と自分が大事に思う女性たちにとって恩恵は(ほとんど)なく、迷惑を押し付けられるばかりだと予想するからです。つまりは損得の問題ですね。
    自分と自分の周辺だけでなく、社会全体としても「恩恵を受けるものはごくわずか、負担を押し付けられるものは多数」という構図になるのは目に見えているので、安易に賛成論を唱える人に「本当にそれでいいのか、損する覚悟があるのか」と問いかけるのが一連のエントリーの趣旨です。
    仮に賛成論者が「損してもいい、それが人助けになる(倫理的だ)」というのであれば、それでもなお「非倫理的だ」と糾弾するつもりはありません。
    「代理出産」の損得(「善悪」ではなく)が明らかになった上で社会的に受け入れられたなら、私は「不愉快だが見てみぬふり」という態度をとることでしょう。これは現在「中絶手術」に対してとっている態度と同じです。
    違いは「中絶手術」はすでに広く行われており禁止するのが困難ですが、「代理出産」は認めるか禁止するか選択の余地があることです。諸外国の例を見ても、日本で「代理出産」を認めることに社会的利益があるとは到底思えません。
    大きな問題なのは、高田夫妻のような「代理出産」利用者が「エゴイスト」と見なされていない(らしい)ことです。
    残念ながら世間ではnomadさんのようにクリアに物事を考える人ばかりではありません。賛成派には「高田夫妻かわいそう」「かわいそうな人に同情する自分はいい人間だ」という情緒に浸りきっている人のほうが多そうです。
    「グロテスク」「寄生出産」といった強烈な言葉を用いたのは、甘い情緒におぼれている賛成派に冷や水をぶっ掛けたかったからです。利害をもとに冷静な議論ができる賛成派ばかりならそのように強烈な言葉を使う必要はありませんでした。
    「三宅島バイクレース」についてはnomadさんのご意見に賛成です。
    私は「死者が出てバイク乗りとバイクレースが白い目で見られるのを恐れる」という利己的な動機で反対しておりますが、それで何も恥じるところはありません。

  2. どうも、始めまして。
    玄倉川さんとこから飛んできました。
    このエントリーはいいですね。
    基本的にはnomadさんの意見にアグリーです。
    僕の場合、人生において大きな選択をする場合に大事なのは、その選択によるメリット、デメリットの比較。
    そして、そのメリット、デメリットというのは大抵倫理的なものではなく、もっと現実的なものなんです。
    正直、個人的に優先度の低い倫理的な理由で、現実的にデメリットの大きい選択を強制されたくはない。
    まだ、自分の意見がまとまっていない部分があるんですが、公的機関というのは特定の倫理観に肩入れすべきじゃない、つまりは倫理的にニュートラルである状態が理想なんじゃないのかな、なんて思っています。
    あと、三宅島レースの件ですが、これについては勉強不足でよく分かりません。
    個人的にはこれもレーサー個々の選択次第かなと思いますが。正直、僕みたいな人間はそれに見合うメリットがないと、敢えてリスクを冒すことはないんで。出場するメリットとリスクが釣り合っていないと感じたレーサーは出場しないんじゃないか、と考えてしまいます。
    長文乱筆お目汚し申し訳ないです。
    僕も近いうちにブログ開設しようかなと考えていますが、なにぶん気分屋なものでして、いつになるのやら・・・・・・。
    また寄らせていただきますので、よろしくお願いしますね。

  3. あちゃ。
    僕自身は玄倉川さんのエントリが倫理に対して積極的な発言をしていると考えて玄倉川さんのエントリを批判しているのではありません。
    玄倉川さんのエントリに触発されて、自分のエントリを上げているとお考えください。
    僕が問題にしているのはまさしく、社会的コストバランスがどこにあるのか、という問題提起です。
    そうしたバランスの問題を話し合うときに情緒的な言葉は使ってはならない、という提案です。
    実のところ、僕は個人は誰もがエゴイストであると考えています。
    そのエゴイズムをどのようにすり合わせていくかが社会というものだろうと考えます。

  4. しかし、一個人がブログなどで意見を発表したところで、法案やら制度やらが動くこともないので、エゴイスト的には社会問題に「賛成」「反対」を表明すること自体ナンセンスな気もしますよ。
    イラク派兵とかでも、「慎重な議論」やら「識者の意見」やら「国民の総意」やら「憲法の精神」やらが散々、抑止力風味をかもし出していたけど、結局、お上がやると言えば、どんな赤字政策でも、非人道的法案でも、戦争でも、おっぱじまってしまうのがこの国の仕組みじゃあないでしょうか。
    まるで外山ナントカの演説みたいな発言ですが。

  5. そもそも向井亜紀が何をする人なんだかわかりません。高田の嫁以前はなんでテレビ出てたんだろ。
    三宅島レースは消極的賛成。
    東京オリンピックと同じで単純に見てみたいから。あと、どんだけ危険なのか、もひとつ想像できないから(一応バイク乗るくせに)。他人の命に思いを馳せるほどの情緒を持ち合わせてないんだな、きっと。見てみたいというエゴは持ってるのに。
    走りたいとは思わない。こわいから。それくらいは想像できる。
    だいくまさん。(ディスカウントストア?)
    > 一個人がブログなどで意見を発表したところで、法案やら制度やらが動くこともない
    これにはひとこと言わにゃあなるめえ。社会は法や政治以外でも変わるし、変えられるものだと思ってますよ。
    まあ僕は変えようとしてませんけど。

  6. > ライアンさん、いらっしゃい
    僕はそんなに世間に対してモノ言うような人ではなくて、コソコソ私利私欲でうまいことやりたいと思っています。
    多分、世間ではそんな人が多いでしょう。
    そういう人たちのための仕組みを考えなくちゃいけないんじゃないでしょうかね。
    ライアンさんのブログ、期待してますよ。;-)
    > だいくまさん
    エゴイスト的には、思ったことを口走っていい気分になる、というメリットがあるじゃありませんか!
    > udonどん
    向井亜紀の今の職業は山姥でしょう。表向きはカリスマ被害者。
    バイクがどこだろうと走るのは、そりゃあライダーが好きにすればいいと思います。エゴイストなんで。
    しかし、主催者も同じエゴイストになって危険を見世物(の一部)にして金を稼ごうとするのが気に食わないのです。エゴイストなんで。
    社会は変える事ができるというのには賛成します。
    僕の言葉でも誰かには届くでしょう。
    3人の人にでも届けば、それは社会の一部が変わったということです。
    社会の持つ資源は有限ですが、その資源を割り振る優先順位だとか、割り振った後の使い方だとかを変えて行くことはできるでしょうし、意味のあることだと思いますよ。

  7. そうかなあ。しかしこのやり取りが代理母問題に一石を投じたかというと、やはり疑問な訳で、結局一個人が社会を変える手段があるとしたら言論じゃなくてテロルくらいじゃないかと思っちゃいます。
    言論に社会を変革できる力があるなら国家はそれを認めないだろうし、逆に「言論の自由」というものを国家が認めているのは、それが玩具のピストルのような無害なものだからだと思います。
    日本中の飲み屋で男達は「今の日本は間違っている」と何十年も言い続けてきましたが、社会の変革にそれが繋がっているとも思えません。それはワイドショーのコメントやら新聞の社説、選挙演説での公約、あるいはインターネットでの発信もそうかも知れませんが。

  8. > 日本中の飲み屋
    ほら、やっぱり気持ちいいというメリットが。
    とはいえ、やっぱり日本も変わっているんじゃないですかね。
    「政府」という1000年生きている妖怪が操っているわけじゃないんですから。
    やっぱり政治家も官僚も日本中の飲み屋でクダをまく連中の一人なわけですよ。
    今、僕の言葉は、代理母の仕組みに対して何かを影響を与えてはいません。(そもそも僕は代理母そのものに対して興味がありません。僕が提案しているのは、物事を動かそうとするときには情動ではなく、コストとリスクで判断した方がいいよ、ということです)
    しかし、僕の言葉が、飲み屋で同じ席に座る誰かの耳に入ることだってあるわけですよ。その誰かはうまくすりゃ、政治家かもしれない。
    まあ、そうでなくっても、何人かには僕の声が届くでしょう。

  9. うーん…
    もう少し控えめに言いましょうか。
    少なくとも、僕は変わることが出来る。
    僕の意見を書けば、もしかすると気の合う人が見つかるかもしれない。
    僕と、僕の周囲の環境は、過ごしやすくなる。
    もしかして、僕が何か、意を決して事を起こそうとしたとき、同調者を期待することが出来る。
    エゴイストとしてあらまほしき考えではないでしょうか。

  10. そういう趣旨であらば良く分かりました。
    もっともだと思います。
    しかし、「政府」というものが問題なのは、1000年生きている妖怪が操っていてくれれば明確にその妖怪に責任追及ができるのが、現在は、デタラメな法案を通そうが、無駄な道路で税金を無駄遣いしようが、誰もそのツケを払わずに良く、しかもそれは国民が選挙で選出した人間が民主的に決定したことにされてしまう点だと思います。
    そして最終的な決断をするのは1000年どころか残り30年も生きれば良いような人間で、彼等にとっては自分が生きている内に良い思いが出来れば良いという、それこそエゴイスティックな判断をします。
    彼等にとってコストとリスクは国家にとってではなく、自分にとってでしょう。
    自分と無関係な人間の代理母出産やらクローンやらバイク事故死についての信条より、それらを認可して、お金がもらえるなら、そうするでしょう。
    薬害エイズ問題で多くの人が死にました。そうなる事を知っていてなお、利権のためにそれを認可した人達は、どれ程の責任を取ったというのでしょうか?
    言論で動かせる社会の部分は、言論の価値を認めている社会の正常な部分で、本当に変えるべき部分、変わるべき人々にはそれらは届きません。
    口で言って分からないなら力で制圧するしかない、というのが私がテロルくらいしか社会を変える方法は無いと言うところです。
    キチ○イが刃物で刺してきてるのに、「話せば分かる」といったり、「薬物や暴力はよくないです」というポスターを貼ったりしてもしょうがないと。

  11. 確かに、現在の政治制度はよろしくない点が数多くあります。
    しかし、その政治制度を変えるにも、将来にわたって有効な手法を考えなくちゃいけません。
    世界を見回してみると、国家を動かすシステムとして共産主義、民主主義、独裁主義があるようです。
    日本くらいの規模の国になると、制度として民主主義くらいしか取りようがないんじゃないですかね。
    確かに非効率ですが、他の手法をとると、今まで以上に政治が腐敗する例ばかりですから。
    なるほど、一時はテロで変えられる部分はあるかもしれない。けれどもそれが継続して社会を運営し続けられるかというと、そうはいかないでしょう。
    長く継続させるには、その分ゆっくりやらないと、損失の方が大きいですね。
    会社のシステムの更改も、事前準備をしっかりして、きちんとビジョンを共有化できていないと、導入したはいいけれど、使えないものになってしまいます。多分、社会もそういうものでしょう。
    社会の格差は、江戸時代から比べると、ずっと減ってきています。社会全体の不公平さは減ってきているわけです。
    不公平や不正は無くなってはいませんから、社会に対して不満を感じることには共感しますが、この先もずっと不公平なまま何も変わらないと断定するには、まだ早いように思います。
    僕が今回のように、社会について何か言うのは、やっぱり僕も社会のインフラと寛容を利用して生きているからです。周囲の環境を整備するのはエゴイストとして必要な行為だと思います。

  12. うーん。
    民意が反映されるのが民主主義ならば、現在の日本で行われているのは一党独裁でしかないでしょう。
    そして、既存のスタイルからしか主義を選べないなら、結局のところ、人間に未来は無いと思います。
    民主主義ですら、不完全な過渡期的産物でしょうし(物事の正否と多数決が関係ないのは誰でもわかること)。
    つまるところ民主主義にしろ共産主義にしろ、根幹にあるのは人間は過ちを自ら正せるものだというような性善説的な信頼であって、その部分からして私は全く信じていないので、社会がこれから良くなっていくとは思えません。
    それこそ、人の本性はエゴイストであり、民主主義の指導者も、民主主義というシステムを利用してエゴを充足させることが目的になり、国家百年の計などは考えていないでしょう。
    民主主義、というより資本主義の行き着く先は万人のエゴイスト化であり、その指導者にとっての「周囲の環境の整備」は国民の利益とは無関係、あるいは対立しているのが現実ではないでしょうか。(靖国参拝など)
    その点で、テロルはそれ自体が社会を変革するというより、国家を私欲で誤った方向に進めようとする人間が出て来た時に、抑止力として働く意味が大きいと思います。
    欲で動く人間にとっては、命より大事なものはないからで、例えば三宅島レースとやらでも、「安全管理に落ち度があって死人が出たらお前も殺すぞ」と石原都知事に言っておき、そしてそれを実行するだけの力が有る事が示されれば、それが署名運動やら批判やら抗議やらより大きな効果を及ぼすだろうと考えるのです。
    「事前準備をしっかりして、きちんとビジョンを共有化して…」というような手続きを踏んだ「正しい改革」は、じゃあ目の前で失われようとする命に意味があるのか?(まあ、三宅島レースや代理母出産でそんなにバタバタ人が死ぬということは無いでしょうが)という事を考えれば、やはり刃物を振り回すシャブ中を前にして薬物撲滅キャンペーンのポスターを貼るような悠長さを感じてしまいます。
    あと、社会の格差が江戸時代に比べて減ったかと言うことについては「格差」という概念自体、近代に作られた物差しなのでそれを持ちこむことに意味があるのかはよく分からないし、縄文人は格差が無かったから現代の社会は現在、縄文人より悪化しているのか?とかそういう話になるんじゃないでしょうか。平均的農民同士、旗本同士、商人同士を比べた場合の格差は現在の自営業同士、サラリーマン同士などを比べた場合と大して変わらない気もします。
    むしろ、士農工商があった時代には行政や立法にまで影響力を持つ民間企業やマスメディアは無く、それらの癒着から来る腐敗も今ほどでは無かったのではないでしょうか。

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