生きていることと死ぬこと、殺すこと、失うこと(1)

ごぶさたしとりましたな。
何ヶ月ぶりかのエントリですけども。
この何ヶ月、身近に、こう、生き死にのイベントがいくつかありまして。
家族や親戚縁者が亡くなったわけではないのですが、ちょうど自分が弱ってるからでしょうかね、思うことが重なり、エントリをあげにくかったのですよ。
今でもまだ気がかりなことは積み残したままなのですが、それでも今、思っていることをちょこっと書いておこうと。
まあ、書き始めるのに時間がかかっている割にはまとまらず、グダグダになるだろうけど、そういうグダグダも今のカンジなんでな。
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会うは別れの始めと申しますが、せつないですな。
この猫、ウチのアパートの近所に住み着いてる野良猫なんですが。
去年生まれた猫がもう子供を産みましてね。
4匹の雌猫が5+4+4+4=17匹(?)の子猫を産んだんですわ。
……


全部をちゃんと数えたわけじゃないので、多分そのくらいだろうという程度ですけどね。
まあ、器量もいいし、情もわきますわな。ちょっとかまってやったらこの仕儀ですわ。
ええかげんにせえよおまいら。
親猫の一匹に、臆病なのがいましてね。
ちっともなつかないし、餌をくれる人がいても寄り付かない。他の猫が食べているのを遠くから物欲しそうに見てるだけの猫でした。
その猫も子供を産みました。
他の猫はアパートのどこか軒先で産んだようですが、その猫だけは怖がりのせいか、人のいる場所では産まず、草むらで産んだようです。
産んだ子猫を連れて、ウチの庭先によく来ていました。
ある日、雨が降りましてね。
梅雨時の雨だ。濡れれば冷えますよ。
ましてや生まれたばかりの子猫です。
あっという間に体温を奪われ、鳴き声はか細くなっていきました。
不憫に思った僕は子猫のいるあたりにせめて雨がしのげるようにとダンボールの箱を持っていきましたが、おびえた親猫は子猫を連れて行ってしまいました。
臆病な親猫は、おろおろしてぐったりしたその子猫をあっちに運び、こっちに運びしていましたが、やがて子猫の鳴き声も聞こえなくなりました。
子猫を見かけなくなってしばらくして、その親猫も姿を消し、ここ何週間か見ていません。
「好奇心は猫をも殺す」という言葉がありますが、なんとも皮肉なものです。
生きていくために身につけたはずの慎重さや臆病さは、何の助けにもならず、むしろ子猫の命を奪ってしまいました。
無防備にスヤスヤ寝てるこの子猫さえ、ずっとこのまま無邪気に育つかと言えば、そうでもありません。
もうすでに3匹、死んでしまったようです。
アパートの駐車場で、車に轢かれて。
たかが野良猫でも、悲しいことですわね。
縁など無いものとして知らん顔してればいいのでしょうが、それでも惹かれるのが情と言うものでしょう。
僕らは行きあって、いずれ別れ行くものですが、その切なさを分かっていてさえ集いますねえ。
この文章を読んだあなたも、僕も、いずれ別れ行きますが。
僕はそういう別れを必然のものとして、どこか諦めているところがありますが、それでも切ないものです。
しかしその切なさを知りつつ、知っているからこそひと時の情を通わせるのですかねえ。
…いけませんな、案の定グダグダです。
まあグダグダのまま、行きましょうか。
この項、続きます。

5 thoughts on “生きていることと死ぬこと、殺すこと、失うこと(1)

  1. ええ。無常なんでしょう。
    それでもね、やっぱり、理屈じゃわかってても、胸が苦しくなる。
    その胸の苦しみさえも受け入れられたらいいですけどねえ。

  2. すみません。
    子猫が産まれたとこまでしか
    よまずに、のうてんきなコメントかきました。

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