生きていることと死ぬこと、殺すこと、失うこと(4)

最近は治安が悪くなってると言うよね。
僕が住んでいるそばでも世間を騒がせるようなニュースになった事件が年にいくつも起きている。むこうのトンネルで通り魔に女の人が刺されただの、近くのアパートから子供が投げ落とされただの、冤罪で痴漢にされただの。
毎日ニュースを見てれば「あの事件に僕や家族が巻き込まれたら」なんてふうに、しょっちゅう思う。
「光市母子殺人事件」だって例外じゃない。僕には家族がいるし、愛してる人を理不尽な暴力で奪われたらと思うと、震えるよ。
僕は被害者の本村さんの方にシンパシーを感じながらニュースを見ている。
まあ、「公平な視点で」なんてものを持ち出すつもりはない。
これも含めて、今までの一連のエントリは「僕はこう考え、こう行動する」っていう表明みたいなものなんだよね。
それを読んでもらって、いろいろ考えてもらえばいいし、コメントをもらえば僕もいろいろと考える。何か世間を誘導しようっていうつもりはあんまり無くて、俺の心の中のモヤモヤを整理しつつ居場所を確保しようって感じ。
……


山口県光市母子殺人事件の被害者遺族、本村さんは復讐をしようとしている。
合法的ではあるが、彼の行動の動機は復讐だと思う。
社会倫理からすれば、もう何百年も前から私的な復讐は禁止されていて、公の機関にまかせるべきだってことになってる。
多分社会コストが高くなるからだろうね。復讐の連鎖とか起きて。
だけど、今回の場合、社会の側が本村さんの行為を単純に批判できるのかというと、僕にはよくわからない。
本村さんの「復讐」とは、世間に広くアピールすることで社会的圧力を高め、犯人に厳罰を与えることなんだよね。
本来、法の下に公平であるべき裁判を外部から圧力を加えることで、自分に有益な判決をさせようとしている。「個人の利益をかすめようとしている」「暴力的な欲求を満足させようとしている」てあたりが、本村さんを批判する人たちは考えているのかもしれないね。もちろん、きちんと整理していないまま、感情で気に食わないっていう人が多いんだろうけど。
しかしよ?
法っていうのは、社会の要請によって作られるものだよね。国や時代によって社会のありかたが違うから、法の姿も変わるわけで。
本村さんがやってることは「民主的な方法で社会に働きかける運動」なんだよね。
そういう「運動」の社会コストがどのくらいで、損益分岐点がどこにあるのかがわからない。
もしかするとそうした社会コストってのは現代の社会を構成する要素として許容範囲なのかもしれない。
あるいは、そもそもそうした社会コストってのは、一定の狭い範囲の中でしか計算できるものではなくて、広いスパンでは誤差の範囲とか。(革命の高コスト性とかを考えると)
ちょっと違う角度から見れば、山崎はるかさんがmixiの日記で書いていたように「今回の事件と、遺族が残っていないような事件の判決の間に差異があってはならない」という意見も理解できる。
しかし、法の平等の精神は理解できるけども、同じような訴訟でも裁判官や裁判所によって異なる判決が出される例も多くあるわけで、こうした「判決の揺れ」も制度の中の許容値として扱う、という考え方もできるかもしれない。
しかしなあ。
そうすると「尻馬に乗る人たち」の問題はどうすりゃいいんだろう。

玄倉川の岸辺: 法律「外」の力
アメリカの西部開拓時代じゃあるまいし、世界でもっとも治安のいい国の一つであるこの日本で私刑を正当化することはできない。

玄倉川さんのエントリは「当て逃げされた瞬間に撮影された動画を動画サイトで公開した」っていう事件について書かれたものだ。
この事件でも扇動された人たちの圧力によって警察は動いたが、山崎はるかさんの考えに沿えば、法が行使される平等性を「横入りした」例になっている。
犯人を追い詰めたのがネット市民だったところから、市民によるリンチとも受け取れる。
いやもう毎日のように炎上は繰り返されてるよね。
温泉に泊まり歩いて湯船に小便するような悪戯を書いたヤツ。
中学生と淫行をして妊娠させて捨てたヤツ。
選挙の与党候補者のキャッチコピーをあさっての方からこじつけて貶めたヤツ。
みんな「社会の怒り」でえらいこと炎上した。人生変わった人もいるかもね。
誰かの扇動に乗るなんてことは、自分のスタイルじゃないからやらないけど。
しかし、それは僕の個人的な感覚であって、「見苦しい」っていう以上の論理的な判断を持ってるわけじゃない。
「扇動された暴徒」と「社会運動に参加する民衆」あるいは「理想に燃え革命を目指すコミンテルン」をどんなふうに線引きすればいいんだろう。
社会ってのは人の集まりなわけで、ある事項の当事者なんてのはほんの少しなわけですよ。煎じ詰めれば人一人を殺した殺人事件があったら、当事者は犯人と被害者しかいなくて、後は皆第三者なわけだ。しかも後に残ってる当事者は犯人しかいない。被害者は死んじゃってるからね。
そういう「関係が1か0か」って視点から「関係が深いか、浅いか」ってえ濃淡に判断を移したら、無関係の人はいなくなっちゃうのな。関係は回りまわって自分のところに行き着く。
例えば法律ができたりな。
そういう見方からした場合、自分が興味がある事項についてコミットしていくのは「関係がある」わけだから、不自然なことではないわけよ。
扇動される人たちから、翻って扇動する側に回るとね。
時々「マスコミ許すまじ」というような論調を見聞きすることがある。「マスコミが無責任に大衆を扇動する」ってね。
僕はこれもどうかなあと思う。マスコミの人たちって、実は僕らと同じメンタリティなんだよ。僕の友人の北海道新聞の記者と電通の管理職の人が僕の目の前で嬉々として皇室の下品なゴシップについて話してたことがある。
「それってホントかよ?」と僕が聞くと「こんなの誰でも知ってるよー」と彼らはあっけらかんと答えた。
結局根も葉もない噂なんだけど、そんなふうに、情報の信憑性や正確さや、情報を流すことによって社会に与える影響なんてものは、彼らもきちんと秩序立てて訓練されてるわけじゃない、ってことなんだよね。
以前と違って、僕らはマスコミの間違いに敏感になってきているから、今までの裏返しで「マスコミは責任を持て」と言い始めてるけど、実は僕はそれは無いものねだりじゃないかと思う。
なぜなら、僕らの社会が求めているのはキャッチーな刺激であって、正確さじゃないからね。
もしマスコミに責任を期待するなら、マスコミの側に責任を取ることで得られるメリットをシステムとして与えなくちゃいけない。けど、僕にはそういうものは、ちょっと思いつかないんだよね。
政府が規制すると、そりゃ統制に繋がるから民主主義ではなくなってしまうし。
今のところ、受け取る側が訓練するしかないんじゃないかと。
なんか、自分の書いていることに違和感を感じるけども、その違和感の正体はわからない。
こんなふうに関係性を拡大していったら、現実的な解なんて得られないんじゃないかとも思うけども、じゃあ現実的って何を指してるのかっていうと、それもわからない。
「現代社会に生きる僕たちが選択する未来の社会」って、ちょっと口当たりのいい言葉を今こじつけてみたけど、社会構造や価値観が変化することを考慮していない。
どういうスパンで見るべきで、閾値がどこにあるのかも示せない。何が利益なのかもわからない。
    …とグダグダループに落ちる…
立ち返って、じゃあ、自分の場合だったらどうするかと問われれば、「僕は僕のモラルで行動する」
僕は合気道を習っている。
合気道の世間に向けてのメッセージは和の心だ。
しかし、習っている技術は格闘技だ。煎じ詰めれば殺すための技術だ。
先制攻撃が無い(少ない)のは相手の力のベクトルを利用するためであって、相手を傷つけないためじゃない。
先日、友達が電車の中で若い女の子に因縁をつけている男とトラブルになった聞いた。
友達は相手の男のキンタマを蹴り上げて電車からつまみ出したそうだが、僕ならどうしただろうと思ってしまった。
一般的にはこうした格闘技を習っている者は、みだりに技を使ってはならない、とされている。有段者の場合、凶器とみなされて過剰防衛になることもあるらしい。
いろいろ考えていたある日、僕が電車に乗っていると、マナーの悪い若者にムッとさせられたことがあった。
何にムッとしたのか忘れてしまったくらいなので、実際は大したことでは無かったのだが、僕の友達のように暴力的なことになったとしたらと考えると、気分が悪くなった。
僕が最初に考えたのは「負けたら恥だし、勝ったはいいが警察沙汰になったら面倒だ」ってことだった。
しかし、そんな利害を先に考える時点で、僕のモラルなどクソみたいなものなのだ。
何のために合気道を習ってるんだろう。安っぽいナルシズムで自縄自縛になってるだけじゃないか。それで何か?世間への言い訳に「合気道は和の心だから」とか言うわけか? 和の心が聞いて呆れるぜ。
僕は勝ち負けや後先など考えず、やらねばならないと思ったときには躊躇わず、やらなくてはならないのだ。
そこには「見過ごしてはならない状況」があるだけなんだから。
僕は技術を持っていて、その技術で何が出来るかを知っているわけよ。
僕には選択肢があるってこと。
僕がある状況を見た時、その技術を使うかどうかを選択することができる。
僕はその技術を使うこともできる。使わないこともできる。それを選ぶのは自分なのよ。
で、なぜ使わないように選んだのか、使うように選んだのか、それを自覚するべきなんだろうね。
ってか、自覚せざるを得ない。
いいトシしたオッサンが何をトチ狂って合気道始めたかと思ったら、何のことは無い、自慢しまわったあげくに相手が弱けりゃ嵩にかかって暴力ふるって、相手が強けりゃ和の心だとか言ってたなら、一体なんの練習だと。
これほどカッコ悪くて情けない話は無いわな。
僕は、自分のモラルに基づいて、自分の能力を使う。
結局、そういうことだ。
もしそれが誰かを傷つけることであっても、それをしなくてはならなければ、僕は躊躇わない。

16 thoughts on “生きていることと死ぬこと、殺すこと、失うこと(4)

  1. その腕を引換えにするとしても、やらねばならないときには。だよね。
    損益分岐点ね>損益分界点
    浜松で熱く話したけれども、結局俺は俺の世界で生きているので、映画を見る気にはならない。わざわざよく似た物語を見なくても良い。
    今回のエントリ、市販されているよくできた道具を持っている人が、それを使わないときにはどのような理由・目的があるのか。に落とし込んで考えてみたりもしました。勉強になりました。

  2. >和の心
    和とは、ニュートラル、調和の保たれた状態です。つまり、調和を乱す異物が現れた場合、それを排除、あるいは屈服させることで和を保たなくてはならないのです。
    暴れている人間が眼の前にいて、放置しておけばエントロピーは増大する一方で、和が乱れてしまうではないですか。

  3. やっぱりさ、人はひとじゃない?
    本当にそれぞれが持つ価値観や、バックボーンや、嗜好や、思想や宗教や、全てが自分とは違うんだよね。
    愛する人を奪われて復讐しない勇気もない私です。
    でも、復讐する勇気があるか?
    それも疑問。

  4. なんか、やっと義務が果たせたような気がするよ。
    長々と書いた割には、結局グダグダなんですけども、まあ、これも僕と皆さんの何かの足しになればうれしいです。
    これでまたイイカゲンでバカみたいなエントリに戻るのよー
    > takesi
    「損益分界点」でぐぐったら、いっぱい出て来たよ!
    んで、そのトップがこのエントリだったよ!
    「損益分界点」世界一ばんざーい!
    (修正しました)
    > だいくま師範
    僕は運動を通して心の鍛錬ができるかどうか、よくわかりません。良くそんなふうに言われますが、実際にはトップレベルのアスリートはしばしば我侭で自分勝手でどんな小さな勝ち負け、損得にも拘ることがあります。
    そのくらい勝ち負けに飢えていないと勝負の世界では務まらないからでしょう。
    武術に限らず、何かをコントロールするなんらかの技術を持った者は、その技術を使うことの意味に自覚的でなくてはならないと思います。・というか・自覚的であってもらいたいなあ、と。
    > ゴジラさん
    僕は、他の人がどのように振舞うべきかはよくわかりません。
    僕が見て良いとか悪いとか感じることはあるでしょうが、僕の感覚は、僕個人のモラルですから。
    ですから、ゴジラさんのやりたいようにやれば良いと思います。
    それよりも、愛している誰かを失うことのないように、しっかり繋ぎとめてあげてください。

  5. プノンペンの高橋など 悪びれもせず とりまきは 鬼畜をあたかも
    ヒーローのごとくあつかい
    今は33きろとりまきもほとんど
    しんじゃって
    神様はみているよ しっているよ

  6. 昔知り合いの人が日頃から、
    「グッド・センス」を養うのが大事と言っていました。
    グッドセンス、中庸、右でも左でもなく、だそうです。
    遵法に対するには遵法で
    不法に対するにはモラルで
    そのモラルの研鑽が大事ということですね

  7. 一人一人の行動基準がその人の中で完結するしかないのはつまるところ各人の脳がつながっていない物理的制約によるものだからこれはもう受け入れるしかないと思う。
    脳と脳を何らかの技術でコネクトするような世界はサイバーパンクを初めとするSF等でさんざん描かれているけれど、各人の思考が脳レベルで直結することでどのような影響が起こるのかを説得力を持って描くことに成功した作品は無い様に思う。
    それだけこの「脳がつながっていない」事実は我々の思考を根本のところで制限しているということだと思う。
    で、一人一人の考えが異なることは認めたうえで、なお出来ることならより妥当だと思える基準をみんなで共有しようと努力しているのが現在の状態だと思う。
    でも、愛する誰かを殺されたりとかいうような事態は「妥当だと思える基準」で扱い得る範囲を大きく超えているのでこれはもう人それぞれの基準になってしまっても仕方がない。
    但し、法律やルールそのものまでおもケースバイケースと考えるのはおかしいし、個人の感覚が千差万別なだけにここは出来るだけ汎用性の高いルールを構築するように全員で努力するべきだと思う。
    その意味で山崎はるかさんの「今回の事件と、遺族が残っていないような事件の判決の間に差異があってはならない」というのを僕は非常に重視する。ついでに言えば遺族として意見陳述するべき人間が被告席に座っているような幼児虐待事件藻少なくないのだから、遺族の意見が判決に影響を与えることは断じて容認すべきでは無いと思う。
    で、重要なのは結局のところ量刑判断の基準。
    これまで日本の刑事事件の判決は概ね軽かったのではないか?という気はする。そしてこれは概ね世間の意思とも一致しているようだ。
    僕の見解と世間の見解が一致するのは珍しいのだけれど、たぶんこの変化は日本のもっと大きな状況の変化と無関係では無いと思う。
    その理由がなんなのかはともかく、遺族に限らず社会が現状の刑罰が軽いと不満を持つのであれば、遺族の意思とは無関係に全部の事件を公平に厳罰化すれば良いと思う。
    ではどの程度厳罰化するか?
    一人殺せば即死刑?
    世の中がそう望むならそれもありだろう。
    しかし、これに関してはやはりそれなりに考えを持った人が考察を進めるべきで、感情にまかせて考える(つまり考えていない)ことが多い大衆の意見をあまり取り入れすぎるのはいかがなものかと思う。

  8. > れんやさん
    難しいのは、モラルっていうのは、個人個人が違うものを持っているってことです。僕と誰かのモラルの衝突というのは当然あるわけです。
    僕は自分のモラルに従って行動していても、それが社会にとって不都合なことってありえるんです。
    その時、どう自分は考え、行動するか、っていうのを書いたのが、このエントリです。
    これは、見ようによっては身勝手な主張なんですよ。
    > 骨王さん
    「社会の側」が骨王さんの考えているように動いていくのならば歓迎すべきことです。
    しかし、その社会そのものを動かす力に対して、どのように僕は振舞うか、ってことなんですよね。
    「社会」がもし、僕の愛する人を奪った犯人を放免したら、僕は復讐するかもしれません。
    「社会」は復讐した僕を罰するでしょうが、それはそれで仕方ない、という表明がこのエントリなんです。
    インモラルな表明を真綿で包んだエントリなんです。
    さすがにそれはまずいんじゃないの、と我ながら思うんですけど、じゃあどう考えれば社会の利益と自分の利益が整合するのか、ってのがわかりません。
    てことは、他の人も似たようなもんじゃないでしょうか。(法律至上主義の方はあんまり考えなくてもいいかもしれませんが)
    ので、個人と社会との間の不整合をどうにかして埋めるアイデアのヒントがあればなあ、と人任せに思っているのでした。

  9. えーと
    個人が妥協しあって成立している社会の構成員としてその社会との衝突を選択した際には自己責任で存分にという退屈な原則の傍ら、
    個人の局面では関が原の石田、大谷ではありませんが止められないとなったら意気に殉じるかもしれません。
    ああ、私はもちろん自分の身となったら間違いなく復讐します罪刑法定糞食らえ。

  10. >「社会」がもし、僕の愛する人を奪った犯人を放免したら、僕は復讐するかもしれません。
    「社会」は復讐した僕を罰するでしょうが、それはそれで仕方ない、という表明がこのエントリなんです。
    それでいいんだと思います。
    少なくとも「そうしたい」と思うことを止める方法なんてありはしないし、できないことをルール化しても仕方ないですから。
    社会のルールからの逸脱を出来るだけ少なくするべく最適化されるべきで、それは全員に出来るだけ公平に適応されるべき、というのは社会に対する僕の要求で、個人に対してではないです。
    だから僕自身もルールに従えないと自ら判断した場合は従わないでしょうし、それをルールに規制される前に自ら規制してしまうことは僕が僕であることを放棄しているのと同じだと思います。
    僕は「社会は個人の自主判断による集合体である」と考えているのですが、これは僕にとっては「社会のルールは守らなければならない」よりもずっと核心に近い上位概念です。
    僕の中でこの二つの概念がコンフリクトを起こした時には前者を優先します。
    他の人も同じで全く問題ないと思います。
    ということで、結論はnomadさんと全く同じで、もしかしたらより迷いが無いのかもしれません。
    但し僕はいざという時に根性なしな上に打算的なのでたぶん大したことをし無いでしょうけれど、、、

  11. > 新婚の風船さん
    すんません、見落としてました。
    —(ここでちょっと解説)—
    風船さんはカンボジアの情勢に詳しいイスラム教徒です。オウムの高橋がカンボジアに逃亡しているところを見ています。現在、高橋はカンボジアで謀略によって投獄され、生き地獄のような目にあっています。
    —終了—
    この世に神様がいればいいのにね。
    でも、神様はいつも不公平ですから。
    高橋は地獄と極楽、因果応報を信じていたので、今、まさにそのような罰を受けているのかもしれません。
    でも、神様が罰を与えない者に、何かの罰を与えたいと思うんですよね。

  12. > れんやさん
    > 骨王さん
    まったく仰るとおりです。
    その通りなんですけど…
    でもね、そういう主張をする人たちは、社会のほんの一部だけでいいんです。
    できるだけ他の方々は殊更そういう主張はされず、法と秩序に従っていていて欲しい。僕はそう思います。
    なぜなら、誰もが僕のように考え始めたら、僕の優位性が保てなくなります。僕には法の埒外まで含めて手段を考慮できる分、選択肢が多いのですから、それを生かさないって手は無い。
    ほら、これは身勝手ですよ。誰もがこんなこと考えてたら、法も秩序も失われてしまう。僕の身勝手な主張は、皆が築いたインフラの上に寄生して成り立っている。
    僕自身は、それでいいのだろうけど、それってやっぱり、自分自身でさえ忸怩たるものを捨てきれないのです。

  13. うーむ、もし万が一オレが本村さんのような立場になったら・・・
    同じことをするかもしれない。
    いや、もっと直接的な行動に出ちゃうかもしれない。
    復讐かぁ。。。
    非戦主義だけど、、、しちゃうだろうな。。。
    町中の喧嘩では
    相手が強そうだと、すぐ謝るようにしているし
    相手が弱そうでオレが手を出したら怪我しちゃいそうなときも謝って中止にしているんだけど
    それは社会的制裁を恐れて自分を守っているだけに過ぎず、見ず知らずの因縁つけてきた相手のことなど、これっぽっちも思っていなくて・・・
    だから、自分のために闘わない。
    でもなぁ、愛する者たちがやられたら、、、
    そうもいかないだろうな、、、
    どうなんだろうなぁ、、、
    今日は考えちゃったよー

  14. 深夜、人通りも車も途絶えた横断歩道の赤信号。立ち止まって青になるのを待っていたとき、「はっ」として周囲を見回してから横断歩道を渡った記憶があるなぁ。
    (あ、およびでない、これまたしつれしました(古))

  15. 空が白んだ早朝に横断歩道のある道路で交番前の道路を斜め横断しています。
    信号によって進退を決めるのは可笑しいと思うのだけど、
    園児、児童が見ているかもしれない状況では、あえて信号に従います。
    無条件に信号無視されては…廻りまわって俺に不都合が生じそうだもの。
    かと言って、危険行為をしている他所のガキを叱りつけることも
    できないでいるダメ人間ですが。

  16. > Kassy The 44MUG
    「ちーっちちっちーおっぱーいボイーンボイーン」のロケンローラーなんですから、後先考えずにどんどんイケばいいよ!www
    ロケンローラーなら臭いメシくらいネタのうちだよ!wwww
    > jinnki
    いやー「法律」って、実はそういう姿が理想的なんじゃねえの?
    「何の役に立っているのかは関係なく、誰もが従う」ってのが、あらまほしき社会の秩序でさ。
    皆が同じ行動を取っていたら、それが「社会のモラル」ってわけ。
    > takesi
    「しかりつける」はしなくてもいいんじゃないかと思うようになったよ。
    子供にはぴしっと「いかんよ」と言えばいいし、大人にはにこっと笑って「やめてね」と言えば大抵の人はやめるからね。

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