バイクに乗るとはどういうことか

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 僕にとってバイクに乗るということは趣味じゃない。
 生き方だ。
 かっこ悪くて居心地が悪い表現だけど、他に言いようが無い。
#もうオントシ42歳の延びきったオヤジとしてはこういう言い方は恥ずかしいんだ。もうちょっとハスに構えさせてくれ。
 僕はバイクに乗り出して四半世紀になる。
 大した距離は走っちゃいないが、いろんなものやいろんな人をみて、いろんなことを考えた。
 結論はこうだ。
 あれこれ言う前に これ 読め。


 …読んだ?
 まあ、思うこともあったろうが、それはぐっと飲み込んでおきなよ。多分、トンチンカンな感想になっちゃうだろうからさ。シゲや僕のようなバイク乗りとはちょっと違う考えだと思うよ。
 そうさ。
 バイクなんてロクな乗り物じゃねえ。
 こんなものに乗るのはどっかおかしいんだ。
 夏は暑い。冬は寒い。雨が降ると濡れる。雪が降れば走れない。家族で乗れない。荷物は載らない。金がかかる。走らないと転ぶ。走ってても転ぶ。時々ケガをする。ひどいケガをする。時々死ぬ。
 現代の日本でそういうものに乗るということは、発展途上国で輸送手段がそれしかないというのとはわけが違う。
 そういうリスクに気づかないというのもどっかおかしいし、気づいていながらもそれに乗るというのはますますおかしい。
 つまり、バイク乗りは皆、気が狂っているのだ。
 どこか過剰か、どこかが決定的に足らないのだ。バイクそのものと同じように。
 まっとうな人生を歩んでるまっとうなオジサンがある日、高速道路のパーキングで停まっているバイクを見るんだ。オジサンは「かっこいいねえ。速いんだろう?僕も昔は乗ってたもんだよ。いいなあ」と羨ましそうに言う。で、それで?
 そのオジサンは次の日にバイク屋に行くと思うかい?
 まあ、もしなんかの間違いでバイク屋に行ったとして、そのオジサンはバイクを買おうとするかい?
 値段を見て、跨ってみて、ちょっとハンドルを動かしてみて。
 それからオジサンはゆっくり首を振るのさ。
「うん。かっこいいねえ。楽しかったよ」
 そうだ。それが分別のある人のすることだよ。
 僕は、バイクに乗ってきて、ずいぶん金を使った。ケガをしたこともあるし、ひどいケガをした友達もいる。目の前で転んだ奴もいる。死んだ人も知っている。家族も心配している。
 それでもそういうことを意識しながらもバイクに乗っているのは、僕はどこか過剰か、欠けている人間だからだ。
 …で。
 じゃあそういうのを反省してまっとうな真人間になりたいかというと、実はそうでもない。
 僕はそういうキチンとした真人間という生き方と、僕のように気の狂った生き方の差がそれほどあるとは思わないんだ。
 損だろうがまともじゃなかろうが、そんなことの差はごくわずかなことだ。
 僕らは…
 僕らは、みな、無駄な生を生きている。僕らの個々の人生に意味なんか無い。僕らはただ連綿と続く進化の鎖のひとつだ。僕らは海に向かって走るレミングの一匹だ。
 「人は死して名を残す」って言ったって、その記号化した名前だけが一人歩きするだけで、その生きていた本当の姿は失われてしまう。そしていつかはその名前も失われる。
 そんな時間の中で、僕の気の狂った生き方をやめて、まっとうな生き方を「あえて」選ばなくったっていいんじゃないかと思うんだ。
 誤解しないで欲しい。僕はニヒリズムでこんなことを言ってるんじゃないんだよね。
 この洞察は希望だと思ってるんだ。
 僕は少なくとも人間の生活というのは昔よりも今の方が良くなってきてるんじゃないかと思ってる。ずいぶんまだ斑模様で納得の行かない残虐なこともあるけれど、それでも少しづつ、ましになってきてると思ってる。
 それが進化の過程なのかどうかはわからないし、進化の目的的なものだとも思わないけれど、人間が「もうちょっとましになりたい」と思う気持ちが少しづつ世界を変えているんじゃないかと思う。人間だけ突出してるだの地球環境にまで人間の活動が影響してるだのはあるにせよ。
 つまりさ、今まで生きてきた人たちの数多の無駄な人生の積み重ねられたしかばねの上に、僕たちの今の少しはましな生活があると思うんだよ。
 そういう進ませるための力の一部になっていると思うんだ。僕の狂気は。
 僕らの中の気の狂った闇雲な指向性が、僕らをどこかに進ませていると思うのさ。
 海に向かう断崖絶壁へ、かもしれないけどね。でもどっかには進んでる。
 僕たちの一人一人の人生には意味が無いかもしれない。僕がどんなにがんばったって世の中は変わらない。けれど、全体を構成するものに対してひとかけらの石礫にはなってるんだよ。その石礫は例えば有名な政治家や、偉大な研究者、尊敬される宗教家と同じ重みを持っているんだ。
 人生はシリアスだし、死はシリアスだ。でもねえ。狂気はコメディーかもよ。
 僕は自分がお笑いをやってるのを知っているよ。
 ノーマルで時速300km出る乗り物に、体むき出しで乗って、その上、馬力が倍になるターボを付けるなんて行為は過剰以外の何物でもないじゃない。
 そんなもの、何の役にも立たないじゃない。
 何の役にも立たないほどの過剰さがコメディーでなくてなんだっての。
 僕は、この幸福なお笑いが長く長く続いていって欲しいと願って、一生懸命、この人生を生きるよ。寝たり起きたりハナクソ掘ったりメシ喰ったりしながらね。
 そうだ。
 さっき、バイクを見ていたオジサンもさあ、そんな遠慮しないでバイク買えばいいじゃん。
 大きなスクーターは人気だし、ボルティとか250ccの単気筒でも十分速いし楽しいよ。
 何も歯ぁ食いしばって走るばっかりがライダーじゃないんだからさ。気をつけて。楽しんで。Good Ride.

7 thoughts on “バイクに乗るとはどういうことか

  1. ケツロンとは
    うんうん。のまdは正しい。本当に死んでしまう程歯を食いしばっていないもんなぁ=おれ。お気楽極楽ライダーさー。
    でも、だんだん「無敵もーど」では走れなくなっていくだよねー。最近巻き込みで車に体当たりしたし。
    人によって違うとは思うけど、僕が「無敵モード」って感覚になっているときは周りが全てお見通しって感じ?
    (周りからはそうは思えんだろうけど、本人そのつもり)
    だから、車の間もすり抜けられる。(ドアミラー割っちゃた車の人ごめんなさい。え?すり抜けできていないじゃないかって?)と言うか、最近はそうじゃなくなってきたと言う話をしているのに...
    では、どうなって来ているかと言うと「ぶつけられても、ぶつかっても転ばない」(僕にぶつかって自分のウインカー割った車の人!信号が変わっちまうからそのまま行ったけど、本線に出てくる前に確認しろ!)から「なるべく、ぶつからないようにしよう!」になったって事かな?
    (わけからん)

  2. あれっ?写真変わった?
    やっぱり、最初に読んでから考えてたけど僕がバイクに乗る理由は「感情」でしか無い。「感傷」とは違うと思うが、感傷に浸ることはできる。
    今思い出す、あの紀伊半島を雨の中走った思い出、伊豆への途中でにわか雨に会った日。早朝の御前崎での日の出。木曽川の夕日。金沢へ日帰りで行ったときの眠さ。5月でも寒い箱根の霧...
    でも、これからもこの目で新しいものを見たいと言う気持ちが「感情」が突き動かしているのだと思う。(2/28箱根越えられるだろうか?死んじゃうかもね)

  3. 感情と感傷の違いについて、僕も思うことはありますが、そういう用語の違いをアレコレ言っていてもあんまり意味はなさそうなんでここでは書きません。明確に説明しきったところでそれが何になるかって言えば何にもなりそうもないんでね。
    (どっちか「言い負かされて悔しいからバイクなんてやめちゃる!」ってなったりして)
    2月28日、待ってますよ。遅くなったらウチに泊まるのも可能です。

  4. はじめして、隼で雪上走行してはるのは外人さん?なんですよね。すんげぇ?と思ってまいました。
    本文の感想は、楽しく乗りましょ!ってトコかな?隼ターボの記事楽しみに読んでます。がんばれぇ?

  5. いらっしゃいませ>dbさん。
    この画像はノルウェー(?)のサイトにあったものです。
    http://www.hayabusa.nu/
    僕のバイクについてはまだまだ書かなくてはならないネタが沢山あるんですが書ききれません。ネタ満載のバイクです。
    手元に来てないのにこんなに話題がつきないバイクもなかなか…
    嬉しいんだか情けないんだかよくわかりません。

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