マスメディアの終焉

テレビ、ラジオ、新聞、雑誌といった所謂マスメディアな方々の意識のズレ…もっと言えばレベルの低さ、時代からの取り残され方には時々びっくりしてしまう。
僕は所謂マスメディアというものは崩れていくだろうと1986年、パソコン通信を始めた時に予感した。(もう20年近く前の話なんだ!今振り返って自分でもびっくり)
マスメディアに関連する人たちは自分たちの世界に余りに無頓着で、その本質を知らない。だから、実にくだらない所でミスをしたり、手痛いしっぺ返しに驚いて沈黙してしまったり、シロウト以上にナイーブな反応をしてしまう。
カトラーさんのblogは見るべきところが多いのだけれど、それでもまだ、僕には物足りない。

カトラー:katolerのマーケティング言論:プロ、アマチュアの垣根の消失がもたらす「喪失」
メディア・マスコミ世界は最期に残された聖域
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前置きにだいぶ力が入ってしまったが、ここから、かなり強引なことは承知で、いきなりメディアビジネスの問題に議論を展開したい。
メディア・マスコミの世界は、資本主義の神学とでも呼ぶべき領域で、さまざまなものが「市場化」されていった中で、最期まで手つかずに残された「サンクチュアリ(聖域)」のようなものだった。「だった」と述べたのは、ブログも含めて、さまざまなメディアツールが生み出され、このサンクチュアリを取り囲んでいる壁が急速に崩れつつあるからだ。
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「ネットは新聞を殺すのかblog」の湯川氏が指摘する参加型ジャーナリズムの萌芽は至るところで見られるといっても良いだろう。昨日、アップされた湯川氏の記事「参加型ジャーナリズムをめぐるちょっとした論争」が、この問題を考える上で貴重な示唆を与えてくれる。その記事の中で、朝日新聞の本郷さんというOBが、ジャーナリズムの役割について以下のような比喩を紹介したという。

比喩で示そう。ショウケースに置かれたカレーの値札が倒れている。三人の客が当てずっぽうに値段を言い合ううちに、六百円か、との合意に至る。そこへ現れた男が、ケースの裏へ回って値札をつかみ出し、「七百円、この通り」と差し示す。  価値ある情報とは、これである。ジャーナリスト、ジャーナリズムの役割が、ここにある。 (中略)  新聞でいう価値ある情報には、見識が濾過した信頼がある。

見識が濾過された信頼ある情報を提供することがジャーナリストの役割という、ここで示された見解に異を唱えるつもりは無いが、本郷氏には「カカク・コム」を利用してみることをオススメする。

まさしくその通り。そして、その通りだからこそ、マスメディアの本質・限界がそこに現れている。
ショウケースの裏に回って「このカレーは700円だ」という男にジャーナリズムの役割があると言う。
僕ならこんな風に話を続ける……。

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